旧呉海軍下士官兵集会所

不詳 1936

#1:道路側外観(2021年1月撮影)

JR呉線のガード近く、旧海軍ゾーンと市街地の接点に建つ旧海軍関係の施設。2021年現在では呉市が所管するも閉鎖されており、敷地内に立ち入ることはできない。なお、館内写真の大多数は2020年に許可を得て内観した際に撮影したものであり、自衛隊退去後の姿であることに留意頂きたい。

下士官兵集会所とは

海軍では、鎮守府で勤務する軍人のほか、入港した艦艇の乗員が休憩できる場所が用意されていた。士官には「水交社」、准士官には「海友社」というクラブがあり(*2)、下士官・兵向けが「下士官兵集会所」となる。
集会所は1903年に開設され、1905年には敷地内に桜松館が建設された。その後、1929年にまず桜松館が建て替えられ、続いて集会所が1936年に建て替えとなり、これが現存する建物となる(以下「本作」と称する)。1945年の呉空襲では隣接する長官官舎ともども被害を免れた。戦後の占領期では英連邦軍が使用し(当初は司令部、後にクラブ「呉ハウス」として)、1956年に返還されると海上自衛隊青山クラブとなった。2017年にクラブが廃止された後は呉市に移管され現在に至っている。
なお、施設の当初の名称は「下士卒集会所」だが”卒”が差別的だとして1921年に下士官兵集会所に改称されている。また、集会所は1938年に解散し海仁会に併合されたため、終戦時の名称は「海仁会呉集会所」である。このように名称は時期により変化しているが、本稿では「下士官兵集会所」で統一する。

下士官兵集会所の機能

#2:本作の竣工時の姿。広島県立文書館収蔵絵葉書より。(CC対象外)

集会所の機能としては、休憩のほか、飲食、宿泊、武道場や各種娯楽がそろっており、徐々に拡充されていく。物販は1924年から始まり、1930年代には小さなデパートのような品揃えとなって市内の商業施設と競合したという。なお、運営費用は下士官兵から月々徴収していたが、1926年以降は官費負担となった。

では当時の新聞記事の描写を見てみよう。(本作の建設前なので、先代の建物に関する描写である点に注意)

眼鏡橋寄りに別な出入口を作り販売所を新時代的なデパートに改造して家族のものが通りすがりにでも出入のできるよう、またわざわざ買物に家族づれで出かけられるよう門戸を開放して、商品は大量購入によって市場より売価を引下げいかめしい海軍から明るい感じのする本当の意味の家庭的な集会所として家族一般の自由に出入を歓迎し、味噌、米などの日用品からちょっとした娯楽品、呉服物、百貨類を揃えて…(以下略)
呉市史第6巻より。原文は1931年12月14日付 呉日日新聞(仮名づかい等一部修正)

当時の観光ガイド本「呉軍港案内」からも引用する(これも本作の建設前である点に注意)。今の自衛隊の売店でもグッズ販売がされていたりするが、海軍も似たような様子だったのかもしれない。

海軍下士官兵の慰安休養のため設けられたもので、売店、食堂、娯楽場、撃剣、柔道道場、角力土俵、浴場、寝室等があり、陸へ第一歩を踏んだ海兵のなつかしい第二の我家である。(中略)売店では、軍港みやげがどっさり陳列してあるから、軍港見学団の帰り仕度はここでするとよい。
新版呉軍港案内(1933年)より

その後、1936年に竣工した本作の用途構成は、文献3)によると、1階に事務室・応接室・大休憩所、2階に食堂・映写室・会議室・家族室、3階に柔剣道場・寝室・家族室、屋上は運動場・休憩室・弓道場、地階に倉庫と機械室、とある。 物販店舗の位置について文献で確認できていないが、最も市街地側の北側コーナー部分の1階であろう。建替え前の集会所では上記新聞記事にもあるように店舗専用の出入口を増設しており、改築設計では動線をスムーズにするよう工夫されたはずだ。

配置計画

#3:1階平面イメージ

計画地は海軍ゾーンと市街地の境界である眼鏡橋に隣接し、先に建て替えられていた桜松館とも隣接する。配置計画はいわゆる街区型で、道路と河川側にボリュームを寄せて中庭を設けた結果、コの字型の建物となった。コの字の開いている側の先には入船山(当時は長官山とも呼ばれた)の崖があり、その上には鎮守府司令長官官舎が建っている。 前面道路から中庭に通じる通路は幅が広く石貼りとなっており、自動車の乗り入れを想定した設計と思われる。少なくとも戦後は中庭は駐車場として利用されていた。さらに興味深いのは、眼鏡橋側(市街地側)のコーナーが丸められて大きな開口部が設けられていることで、一般開放されていた物販店舗のアクセス性を意識したデザインと推測する。
なお、海軍ゾーンの入口は第一門、第二門、第三門…のように名付けられており、本作の建物前にあったのは第一門であるが、1930年代の時点では門扉などはなく歩哨が見張っているのみだったという。

外観

眼鏡橋側の丸められたコーナー部には水平連続窓が配されているが、当初の外装はスクラッチタイル貼りであり、装飾的なディテールも見られることから、水平連続窓があるとはいえ教科書通りのモダニズム建築でもない。
外装は前述の通りスクラッチタイル貼りであり、窓の上部に庇が付くなど、表情豊かな外観だったが、戦後の改修時に庇が撤去されたうえに品のない色で塗装されてしまった。一部の外装や屋上にはタイルが現存しているので、復元できるとよいのだが…。
なお、アニメ映画「この世界の片隅に」では考証に基づき再現された本作が登場するので説明用に引用する。(#8-11)

一方、中庭側の外観は道路側とは全く違う。1階はぐるりと巡る回廊に円形の列柱(柱頭にはテラコッタの装飾が付く)が並び、2階は大きなバルコニーがぐるりと巡っている。2階バルコニーには柱は無く、上部を覆う庇は片持ちになっている。 この妙に大きなバルコニーの使途は不明だ(まさか洗濯場でもあるまい)が、1階の回廊ともども庭と建物の間をつなぐ縁側的な役割を期待されたのかもしれない。

内部空間

内部空間については、オリジナルの設計図を発見できておらず、戦後の「青山クラブ」時代の改造箇所も把握できていないため、以下の内容は目視したものからの推測を多く含む。
■1階北側(市街地側)は戦後にホテルの受付・ラウンジに改造されており、往時の痕跡らしきものは見られない。
■2階の食堂には厨房があるが、荷物用エレベーターが設けられているので、食堂・厨房の位置は当初のままと思われる。エレベーターがオリジナルかは不明。
■3階は改変が少ない印象を受けるが、それぞれの部屋のオリジナルの用途が分からない。呉市史の記述を信じると宿泊室(面会に来た家族用のものも含めて)が多く配されていたようだ。
■3階の柔剣道場は、そこだけ屋根スラブが高くなっているので当初から位置が変わっていないとみていいだろう。剣道場はRC梁のハンチが雲肘木のような形で、天井も格天井であり、いずれも和風の要素といえる。円形の横連窓の内側にはベンチが作り付けられていた。
■地下は基本的に機械室。トップライト(1FLの回廊の足元にガラスブロックがある)やドライエリアからの採光がそれなりにある。

屋上

屋上は弓道場と運動場があったようだが、明らかな痕跡は見つからなかった。スクラッチタイルは意外に多く残されており、外観復元する際には重要な資料となるだろう。

どう残していくか

本作については戦後の長きに渡り海上自衛隊が「青山クラブ」として使っていたが、2017年に閉鎖され、2018年に呉市が取得した。現行の耐震基準は満たさないため相応のコストをかけて補強する必要があり、2021年現在では使途が決まらず閉鎖されたままとなっている。 一方で、本作は旧海軍ゾーンの重要遺構の数々(旧司令長官官舎旧鎮守府旧海軍工廠など)と呉駅・大和ミュージアムを結ぶポイントに位置しており、隣接する入船山公園も含め駐車場が十分あるのが強みだ。
そもそも呉を訪れる人の多くは大和ミュージアムの展示だけを見て、旧海軍ゾーンにある”本物”の遺構まで足を延ばさないのが大きな課題といえる。ならば、この建物には大和ミュージアムの分館機能に加えて観光案内所や”道の駅”的な物販店を入れていき、地域の回遊性を上げていく拠点として再整備するのがよいように思える。 軍事系の遺構をどう扱うかはナイーブなテーマだが、本作を通して、呉という都市の出自そのものである旧海軍の歴史遺産を後世に伝えていけるかが問われている。