広島逓信病院旧外来棟被爆資料室

山田守/逓信省営繕課 1935

#1

広島城にも近い官公庁エリアに建つかつての病院(*1)。ベット数30という小規模な病院であり、 もとは丁字の平面プランであったが、のちに一部解体され板状となった。1995年に保存工事を受け、 現在は資料館となっている。広島に残る戦前期モダニズムとしては袋町小学校と並ぶ貴重な存在である。

山田守が手がけた初の病院建築

本作は、当時逓信省営繕課にいた建築家山田守が手掛けた初の病院建築とされる。山田は当初は東京中央電信局(1925年)に見られるような表現主義的なデザインを志向していたが、1929~1930年の欧米視察で本場のモダニズム建築に触れた(ル・コルビュジェ、グロピウス、メンデルゾーンらに会い、CIAMにも出席したという)のを契機に作風がモダニズムに変化していく。本作の設計は帰国直後ごろと思われ、山田にとってモダニズムを試していく過程の中にあったものと思われる。
なお、逓信省は1932年に「設計申し合せ」を作成し、設計に合理性・経済性を求める方針を定めている。李明は、この時期の山田の作風の変化には海外視察だけでなく逓信省の方針も影響したと指摘している。3)

#2:平面プラン(CC対象外)。左が1階で右が2階。背景図出典は 3)

合理的な平面プラン

では、本作の建築について見ていこう。前述のとおり、本作の平面形は当初丁字だったが一部解体され板状になっている。現存する部分は1階が旧診療室で2階が旧病室だ。現在のエントランスは外科専用の出入口だったもので、搬送されてきた患者は正面玄関を通らず最短ルートで手術室に運び込めるようになっている。そういう目で平面プランを見ると患者の受付~待合~診療といった動線や衛生管理が設計を決めていることが分かる(こういった機能が前面に出る合理的な平面こそがモダニズムの肝といえる)。

#3:往時の姿(CC対象外)。写真は館内に掲示されていたもの。番号は筆者が記入。

#4:無菌手術室の内部。窓が大きく明るい空間。タイルは当初のものが現存。

外観写真を読む

外観については、被爆前の写真を見ると(写真#3)色々と気づきがある。

(a)病室の窓は南西を向いており、壁一面が窓というくらいに大きい。窓枠は田の字であるが観音開きではなく、上げ下げ式が2~3並んでいる。
(b)階段室の窓は建連窓となっており、突出式の窓枠が修復され現存する。
(c)1階手術室はモダニズムらしい横連窓で、出窓となっている。現在ではガラス張りの手術室は考えられないが、照明が貧弱だったのだろうか(日光での殺菌を狙ったとの説もある)。
(d)屋上にはサンルームがあったが現存しない。
(e)南側の空地では将来の増築が想定されていたようである。
(f)隣接地には同じく逓信省営繕課の上浪朗が設計した広島逓信局庁舎があった。被爆時にも倒壊しなかったが戦後解体され現存しない。

こういったシンプル白い箱といった趣のモダニズムは、作家性が希薄で面白みがないとして、特にル・コルビュジェを信奉する建築家たちからは「トーフ」「衛生陶器」などと揶揄されていたが、 機能から形態が決まっていくモダニズムの原則に忠実なデザインの歴史的な価値は薄れるものではないし、窓の形を工夫したり、角を丸めて印象を柔らかくするなどの作家性は発揮されている。

見学可能な室内

保存されている板状の建物のうち、1階の南端部は病院の受付に申し出れば鍵を開けてもらえて見学できる。被爆時の強烈な爆風や火災により窓やドアなどの建具や家具類の多くは失われたが、1階は火災を免れたために当初のタイルが残されている。 また、館内には被爆時の病院の状況(被爆直後に辛うじて病院機能を保てた逓信病院と赤十字病院には負傷者が殺到したという)を伝える資料が展示されているので、あわせて見学したい。