広島市レストハウス/旧大正屋呉服店

増田清 1929

現在の平和記念公園にあたるエリアは中島町と呼ばれ、江戸時代以来の歴史ある商業地であった。戦災で消滅した中島町が商業地であったことを唯一伝える遺構、それが本作である。旧西国街道である道路に沿ってポツンと建っている。

中島町の繁栄を伝える唯一の遺構

#1:前面道路はかつての西国街道。丹下健三は平和記念公園を設計する際にこの街道筋は残した(ただし枡形などのディテールは残っていない)

#2:被爆前の姿。当時は燃料会館となっていた(平和記念資料館内の模型を撮影)。本川小学校校舎(ごく一部のみ現存)も増田清による設計。

#3:地下室の状況。詳細は調べていないが基礎部分にはレンガが使われていたようだ。

大正屋は大阪に本店をおく呉服店で、1929年に川の対岸からこの地へ移転し、店舗を新築した。木造低層家屋が建ち並ぶ中に突如出現したRC(鉄筋コンクリート)建築であり、屋上に上れば市内が一望できたという。呉服店ながら売場にはショーウィンドウがあり、靴を脱がずに入ることができた。当時の広島では革新的な店舗であった。

しかし戦局が悪化の一途をたどった1943年12月、繊維統制令により呉服店は閉鎖となってしまう。建物は県燃料配給統制組合が買い取り、名称も「燃料会館」となった。この例に限らず耐火建築には物資統制のための国策会社が多く入居していたようである。

設計者は当時大阪を拠点に活動していた建築家増田清(1888-1977)。広島では「本川尋常高等小学校校舎(1928年・一部現存)」、「広島市庁舎(地下室の一部のみ現存)」などの作品を残している。また増田は構造の専門家としての顔も持ち、RCの耐震性の検討や施工上の問題などに関する論文も執筆している2)。彼が注力したこれらのRC建築は産業奨励館とは対照的に被爆時の強烈な爆風に耐え抜き、戦後の長きに渡って使われ続け、その耐久性を証明してみせた。本作の場合は爆心地から170mという距離にありながら大破全焼しつつも全面崩壊は免れた。これはRC造という構造もあるが、爆心地側(すなわち元安川の方向)に開口部が少なかったという事情もあろう。(ただし、当時勤務していた職員が地下室にいた1名を除き全滅した事実は忘れてはならない)

戦後もしばらくは燃料会館として使用されたが、1957年に広島市が買収し戦災復興区画整理事業の事務所「東部復興事務所」となった。さらに1982年からは観光案内所に改装され現在に至っている。内部は全焼してしまったため面影を残していないが、地下室だけは被爆時のまま残されている。(レストハウス内で申し出れば見学させてもらえる)

被爆建築の価値の多面性

被爆建築の数が減り続ける中、この建物でも解体論争があり、辛うじて残っている状態だ。被爆建築の取り壊し反対運動の場合、その多くは被爆しているとの価値が前面に出てくるが、私は例えば平和教育のために被爆建築を残すというのは、長い時を過ごしてきた建築を評価する一要素に過ぎないと思う。本作はたとえ被爆していなかったとしても残す価値はあるわけで、もう少し視野を広げて、そもそもごく僅かしか残っていない土地の記憶・地霊を失うことはどうなのか、そういう論点もあっていい。
広島デルタでは戦災復興期に近代都市計画の手が入っている。それは歴史的必然とも言えるだろうが、江戸時代から受け継いだヒューマンスケールの街区・建築の名残りが少しくらいはあってもいいはずだ。地霊を継承せず抹消するという行為は、それが戦災であれ再開発であれ、その影響が計りしれないことをわきまえるべきだろう。(私自身も含めて)