旧日本銀行広島支店

長野宇平治+日銀臨時建築部 1936

#1:ただ一つ残った様式建築

市の中心部に建つかつての銀行。広島の金融街を形成した風格ある様式建築群の唯一の生き残りだ。
日本銀行は1905年に広島出張所を設置し、1911年に支店に昇格、1936年には業務拡大に伴い現在の建物を新築し移転した。戦前期の日本のRC建築の円熟期にあたる1930年代後半に建てられたもので、躯体は極めて堅牢であり、爆心地からわずか380mという近さにありながら往時の外観をとどめている。被爆建物の中では抜群に状態が良い。

建築家 長野宇平治

#2:横浜にある大倉山記念館

辰野金吾が明治日本の建築家第一世代であるなら、長野宇平治は第二世代にあたる。長野は西欧の様式に精通し、特に様式が求められた銀行建築の分野で腕をふるった。広島では、まず辰野金吾の助手として前述の日本銀行広島出張所(1905年)を担当、続いて三井銀行広島支店(1925年。後の広島アンデルセン)、そして本作である。本作竣工時に長野は69歳と最晩年であり、おそらく設計監修程度の関与だったのではと推測する。
晩年の長野がその様式マニアぶりを存分に発揮した「大倉精神文化研究所(1932年。現在の大倉山記念館)」と比べると本作の外観はいたって控えめだ。1930年代後半ともなると様式建築にも古さがあったのか、あまり冒険させてもらえなかったのだろうと推測する。

建築について

#3:旧日本銀行広島支店のファサード。

ファサードは近世復興式(ルネサンス様式)。中央に二層抜きの角柱が4本配され、柱頭装飾はイオニア式。縦長の窓は矩形が強調され、よく見ると上げ下げ式のスチールサッシになっている。
続いて内部空間について。平面計画は当時の銀行建築の定番に沿い、エントランスをくぐると吹き抜けの大空間に客溜り・窓口・執務スペースを配し、その奥に支店長室などの個室が並ぶ。吹き抜けの上部を見ると、漆喰によるオリジナルの天井装飾が現存するほか、トップライト(天窓)も確認できる(*1)。当初は内部の柱にも柱頭装飾が施されていたが現存しない。
本作の場合、被爆時に1~2階の鎧戸を閉じていたこともあり、支店長室の一部ながら、寄木のフローリングなど被爆前のインテリアが焼けずに現存しているので、ぜひ見学してみてほしい。
地下の金庫室も見学できる。地下躯体やアメリカ製の金庫扉などは健在だが、被爆時には瞬間的に強烈な爆風が地下にも流れ込み、鉄格子に被害が出たという。

中途半端な活用状況

本作は戦後も修復されて日銀支店として使われ続け、別の場所に1992年に移転した後は空き家となっていた。日銀は当初売却を想定していたが、広島市は「広島平和記念都市建設法(*2)」を根拠に譲与を求めた。2000年5月に日銀が出した結論は「市指定重文に指定されれば無償貸与、国重文に指定されれば無償譲与。(いずれも根拠は広島平和記念都市建設法)」というものだった。市は直ちに本作を市指定重文とし2000年7月には日銀と市との間に使用賃借契約が締結されたが、国の重文に指定されるメドは立っていない。かくして所有権が市に移動しないために、入場料の発生しない展覧会程度にしか使えない中途半端な状態が続いている。その間、同じく長野宇平治が設計した松江の日銀は「カラコロ工房」となり、岡山の日銀も「ルネスホール」に再生した。明らかに広島は出遅れている。
当面はインテリアの復元等をやって国重文指定に持ちこむくらいしか方法がなさそうだが、もし譲与がなれば、基盤部分の工事だけ市が負担して民間運営の文化・商業・インキュベーション施設として再生させ、都心活性化の目玉にするのが理想的だし、この立地ならそれは可能なはずだ。