市営基町高層アパート

大高正人+藤本昌也/大高建築設計事務所 1978

[注意1] 基町高層アパートは現役の住宅です。見学にあたっては住民のプライバシーを考え、外観撮影であっても十分に配慮するようにしてください。
[注意2] 基町高層アパートの屋上は通常非公開です。見学するには市民団体が実施している見学会などの機会を利用するようにしてください。


戦災復興の過程で生じたスラム住区のクリアランス事業。日本の集合住宅史に残る大作であると同時に、都市計画の教科書にも掲載されている重要事例である。

1:プロジェクトに至るまでの経緯

#1:1898年の広島市街地(CC対象外)

■広島開基の地・基町
基町とは広島開基の地の意、すなわち旧広島城に相当する。16世紀末に毛利氏が都市を建設した当初から城内の侍屋敷にゾーニングされていた。明治に入り広島城に陸軍が駐屯するようになると今度は全域が陸軍関係の施設で占められるようになった(詳細はこちら)。日進戦争時に一時的に首都機能が東京から広島へ移転した際も、まず大本営(総司令部)が広島城へ移転し、明治天皇や政府要人も広島城に入城、さらに城内の練兵場(現在の県庁あたり)に妻木頼黄の設計で帝国議会仮議事堂が建てられるなど、基町はその中枢を担った。
19世紀末の地図を見ると、旧広島城の大きさが分かる。現在の相生通りから北側はほぼ全て陸軍用地で、紙屋町交差点は現在の十字ではなく丁字を描いていた。
このように軍事都市広島の中枢としての役割を担った基町エリアだが、被爆により全てが灰燼に帰し、何もない広大な空地となった。

#2:高層アパートの横には市営(白)と県営(茶色)の中層住宅が並ぶ

#3:(C) こうの史代「夕凪の街 桜の国」双葉社 pp13 の1コマをトリミング(*3) CC対象外

■原爆スラムの形成
広島市は戦災復興都市計画において、旧陸軍用地(国有地)である基町エリアの東半分を官公庁施設、西半分をを公園として整備する方針を固め1946年に計画決定したものの、著しい住宅難に対応するために応急的な処置として木造平屋の公営住宅を建設せざるをえず(*1)、また河川敷や公営住宅のスキマなどに勝手にバラックを建てて住みつく者も続出し、一帯では「相生通り」あるいは「原爆スラム」と呼ばれる木造密集住宅地が形成されていった。衛生状態は劣悪で火災も頻発したという。
市は、もともと簡素なつくりだったために老朽化が著しい木造平屋の公営住宅を中層のRCに建て替えることを決め、1956年に都市計画を変更し、住民の猛反発に遭いつつも1968年までには930戸(市営630戸・県営300戸)を完成させた。しかし、これはあくまで公営住宅の建て替えであったため、不法占拠住宅はそのまま残され、スラムクリアランスとしては中途半端なものとなった。
不法占拠住民の中には、復興区画整理などの過程で他地域でのスラムクリアランスにより家を追われて流れ着いた者が多く、たとえ強制排除して整地したとしても他の場所がスラム化するだけで問題の解決にはならない。(*2)
難しい政治判断を迫られた市・県・国の三者は秘密裏に協議を重ね、住宅地区改良法の適用による全面救済という形で決着が図られることになり、基町高層アパートのプロジェクトにつながっていく。

■原爆スラムの実態を知る
ところで、映画化もされた漫画「夕凪の街」は、まさに基町の不法占拠住宅が物語の舞台となっている。本来建てられないはずの河川敷に建っているので間違いない。劇中の1955年当時は前述の中層アパートを建てようとする市と住民が対立していた時期であり、漫画をよく見ると「立ち退き絶対反対」というビラがさりげなく登場しているのに気づく。

#4:左が1974年、右が1981年。
国土交通省「国土画像情報(カラー空中写真)」より引用(CC対象外)

また、変化を知る手がかりとなるのが、1974年と1981年の航空写真の比較だ。1974年では、基町高層アパートは既に完成しており、その左に中層住宅、一番下にある大きな屋根は県立体育館(現グリーンアリーナ)。左側の水面は本川(太田川)で、右の水面は広島城本丸の堀。基町高層アパートは竣工済みとはいえ、まだかなりの低層住宅が残っていることが分かる。
一方、1981年になると現在の姿に近くなる。アパート整備にあわせて基町護岸も整備されたことが分かる。今となっては原爆スラムの痕跡は何も残っていないし語られる機会もない。地元でもその事実すら知らない人も増えている。


2:プロジェクトの概要

#5:基町地区の平面計画 出典:基町地区再開発事業記念誌(CC対象外)

■住宅地区改良事業
前述の通り、原爆スラムの問題は不法占拠住民の全面救済という形に落ち着き、住宅地区改良法の適用が決まった。すなわち、原爆スラムの住民を吸収するための改良住宅と、慢性的住宅不足に対応するための公営・公団住宅、合計4500戸強を高層住宅(最高で20階)として建設し、長年の悲願である公園および河岸緑地を確保する。あわせてショッピングセンター、小学校、集会室などの生活基盤施設も整備する。当初、広島市は特別立法による住宅建設を請願したが、最終的には住宅地区改良法に基づく住宅地区改良事業として実施されることとし、基町地区に長寿園地区(県が太田川を埋め立てて造成)の山陽本線以南のエリアを加える広大なものとなった。
基町で住宅地区改良事業が使えたのは、全域が国有地で住民側に所有権がなかったのが大きいと思われるが、それでも高層住宅へ転居させる苦労は大変なものだったろう。これには住宅地区改良法が収用を前提としていてソフトなやり方を取りにくい点も影響していたらしい。なお、都市計画的には「特定街区」で担保されている。

■資金計画
現代でも再開発事業の事業計画、特に資金計画は権利調整と共に苦労の絶えないところだ。基町では住宅地区改良事業として施行するので国庫補助を受けられたものの到底足りるものではなく、その一方で建築費は高騰を続け、さらに住民の反発を抑えるために高層住宅であっても従前の木造と同等の賃料水準にせざるを得なかった。その結果、コストは極限まで切りつめられ、また補助金を最大限得るために建築デザインにも制約が加わることになった。。


3:建築家大高正人

#6:フランス マルセイユのユニテ・ダビタシオン。建築家ル・コルビュジェによる、高層集合住宅の元祖というべき歴史的名作。

#7:晴海高層アパート。[左] 模型、[右上] アパートの1室。2層単位のユニットでありメゾネットではないので、両面採光できる階とできない階がある。これは両面採光のケース。まさに「和風ユニテ」というべきデザイン。[右下] 手すりなどはPC(プレキャスト・コンクリート)部材を多用している。これも基町に受け継がれた。
なお、晴海高層アパートは既に解体されており、一部居室が都市再生機構の施設内に保存されている。

#8:坂出人工土地。人工地盤の上は公営住宅、下はメゾネット店舗。人工地盤の上にも自動車が上がっていける。

#9:大谷幸夫が担当した川崎市河原町団地。ツインコリダー式で住戸がセットバックしながら配され、中央部には自然光の入る大空間が広がる。基町とは違うアプローチであるが、こちらも実験的要素の強いスタイルである。

■晴海のリベンジ・マッチとしての基町
基町高層アパートの設計を担った大高正人は前川國男の元で研鑽を積んだ建築家で、前川事務所在籍時には公団晴海高層アパート(1958年・現存せず)を担当している。晴海は高層住宅黎明期の作品であり、ル・コルビュジェ(前川の師匠でもある)による「ユニテ・ダビタシオン」の強い影響を受けている。しかし、当初あったピロティが着工段階になって「もったいない」という公団総裁の指示で住戸へと変わってしまい、グラウンドレベルで視界の通らない閉鎖的な計画となってしまった。大高が基町でピロティの実現に心血を注いだのは晴海のリベンジという面もあったのではと思われる。
基町の基本的な構成は晴海を踏襲しているが、ピロティと屋上庭園を備えている点において、コルビュジェへの純化がなされており、さらに後述の「くの字配棟」などオリジナリティが加えられており(晴海は板状だった)、晴海からの着実な進化の様子がうかがえる。

■メタボリズム表現としての基町
メタボリズム・グループの一員でもあった大高は、前川事務所から独立した後に「坂出人工土地」を手がけている。黒川紀章らのメタボリズム作品が「新陳代謝できるっぽいデザイン」にとどまるのに対し、坂出では人工地盤の上と下でスクラップ・アンド・ビルドを行う「二階建ての都市」というシステム提案に至っている点に特徴がある。基町での人工地盤はショッピングセンターの上に置かれているにすぎないが、住棟では躯体を壊さずに住戸を改造できるよう設計されており(スケルトン・インフィルの事例としてはかなり早い)、2012年時点では戸境壁を抜いて住戸を拡大するなどの工事が行われ、新陳代謝を実践している。
なお、坂出人工土地は基町と同じく改良住宅によるスラムクリアランスであり、坂出での経験は基町で活かされることになる。

■高層公営住宅のさきがけとしての基町
基町ではその戸数の多さから高層化が必要となったが、公団では既に晴海などを経験していたものの、公営住宅では高層化の事例がなかった。国は広島の基町と川崎の河原町を高層公営住宅の第一弾とする方針を固め、基町担当に大高正人、河原町担当に大谷幸夫を指名した。こうした経緯から、基町高層アパートではコンペなどは実施されず、大高事務所へ特命で発注されている。

坂出で改良住宅を経験していたとはいえ、基町は坂出と比べて遙かに規模が大きく、常に厳しい現実と向き合わねばならず、苦労の連続であったことは想像に難くない。

-(略)- 華やかな仕事に比べるとシンドイ、ショッパイ仕事です、と大高さんは苦笑された。作品主義に徹していれば、こんな苦労もないし格好もよかったのに大変なことになった、とも冗談をいわれた。この領域では言語は美をではなく、契約や法を語るからである。しかし、建築家としての大高さんの着眼点はナカナカという感じで、ここまで10年以上もやってきたのでその蓄積もあり、止めるのは採算にあわないし、20年位は中心的仕事になるんじゃないかと思って、とかの大高さんの言葉の裏には、なみなみならぬ思慮と自信が感じられて、ここに新しい建築家の型が登場しつつあることは、ぼくの目がいかに節穴でも素通しとはいかぬ大きさであった。
(石井和紘(1973)「ルポタージュ 基町旋回」 雑誌 新建築 1973年5月号 pp196 より引用)


-(略)- 明日はまた広島に行く。われわれを意のままになる図面書きと思う市民の数々の注文があろう。善意の内容を理解しない反対もあろう。何よりも9ヘクタールに3000戸という重荷に私は押しつぶされそうだ。ぎりぎりの予算で、せっかくの筆もちびてしまう。それを知らぬ市民の注文を明日は聞かなければなるまい。早くも市民があらしはじめた庭も見なければなるまい。そして話しにもならぬほどの重荷を黙々と支えている県や市の職員や事務所の仲間をいくらかでもはげましてやらねばなるまい。
(大高正人(1973)「都市生活環境と建築家の役割」雑誌 都市住宅 7307 より引用)



4:基町高層アパートの建築について

#10:住棟は屏風のように「くの字」に折れ曲がりながら南へ行くほど低くなっていく。

#11:雑誌 都市住宅からの引用(CC対象外)

では、基町高層アパートの建築について説明する。
設計は前述の通り大高事務所で、大高の下で設計チームを率いたのが藤本昌也。藤本は広島育ちの建築家で、父親である藤本初夫は広島市技師として市営平和アパート(1949年)をはじめとする多くのRC建築を手がけている。藤本自身も本作の後に鈴が峯・平林・梅林・庚午南など広島市内の多くの公営住宅を担当した。

■くの字型配棟計画
基町が晴海やユニテ・ダビタシオンなどと決定的に違うのは独特な配棟計画である。当時のいわゆる「団地」は南向きの板状の建物をズラリと平行に並べるのが主流であったが、高層住宅に求められる住戸数があまりに膨大であるため、それでは広場や小学校のスペースを確保できない。こういうケースでは、公団ではツインコリダー式を多用していたが、大高は住戸間で採光条件に不公平が生じるとして採用せず、板状住棟を45度回転させて屏風のように折り曲げていく「くの字型」へと収れんしていった。
本作ではこのプランにより住棟間距離が100~150m確保されている。現代の住宅設計では30mが目安となっているから、今から見るとかなり余裕がある。45度振ることで北側への日影を小さくする効果もあったようだ。

この住棟配置について、藤本はただの建築ではなく一つの都市としてのたたずまいを意識したと述べている。

日照条件やプライヴァシーといった各住宅の居住性に対する親切で合理的な解決から生まれたことは言うまでもないが、同時に重要なのは、従来のアパートのようなマッチ箱的建築概念を捨て、高層アパート群をできるだけ都市的スケールを持った構築物として捉え、それらが基町団地の中央のオープン・スペースや周辺の屋外空間をひとつの都市的空間として秩序づけ、豊かな外部空間を演出していることである。
(藤本昌也(1973)「<超建築>への挑戦」 雑誌 都市住宅 7307 より引用)

雑誌「都市住宅」の記事を見ると、この「くの字型」でも様々なパターンが検討されており、当初案では住棟の真ん中に学校があったことが分かる。 なお、各住棟は平和記念公園から伸びる「丹下ライン」を避けて建っているが、これは当初から意図したものではなく、結果的に避けた配置になったようだ。

#12:4戸で1ユニットを形成。

#13:エレベーターは2層ごとに止まるので、共用部の一部は吹き抜けとできる。

■2フロア単位の住戸ユニット
住戸は基本的に9.9mスパンの中に、片廊下に面するAタイプ(専有36平米)と階段でアプローチするBタイプ(専有42平米)を各2戸入れ込んで4戸で1ユニットとしている。この方法だと、共用廊下の面積を最小化して専有面積を大きくでき、開放的なエレベーターホールを確保でき、さらにエレベーターが2層おきに止まることでコスト削減も可能となる。また、Bタイプは両面採光にできる。前述の通り晴海高層アパートから受け継がれたスタイルといえる。
確かに今のように住民が高齢化してしまうと階段を前提とするこの方式は大変な問題となるのだが、当時としてはやむを得ない決断だったと思うし、開放的な共用空間は(設計者の意図通りに井戸端会議空間となったかはともかく)なかなか魅力的に思えた。原爆スラム時代の濃密な路地空間をここに少しでも再現しようという設計意図はとてもよく分かる。
なお、現在このようなスタイルが普通のマンションで採用されることはまずない。バリアフリー上の問題もあるが、今は共用廊下が容積率計算の対象外になっているので経済的インセンティブに乏しいためだ。

■屋上庭園
本作でユニテ・ダビタシオンの影響を最も感じるのは屋上庭園だろう。ル・コルビュジェが提唱する5原則の一つでもある。
大高は、屋上庭園をただ公開するだけでなく、診療所や保育所をも屋上に配置することを考えた(このあたりもユニテ・ダビタシオンっぽい)が、最終的にはサブ集会室と花壇程度に落ち着いた。だが、子供が遊ぶ際の騒音を考慮し屋根を二重にするなど(でも実際は音が響いてしまうらしい)、厳しいコストの中でできる限りの工夫がなされている。
なお、屋上庭園は当初は誰でも立ち入ることができたが、現在は諸般の事情により施錠されており、住民だけが利用する形となっている。したがってこれら写真は特別見学の際に撮影したものである。

まず驚かされるのは、本当に屋上全部が公開される前提で設計されていること。設備機器などは何もなく、ただフラットな状態だ。そして、くの字に折れ曲がりつつも北が最も高く、南に行くにつれて下がっていくようになっていること。つまり屋上の北端に立った時に南への眺望を遮らないようになっている。頭では分かっていても実際に現地に行くとその素晴らしい眺望に目が釘付けになる。
屋上を北端から南端へ、折れ曲がりながら、階段を下りながら進むと、各所に段々畑のような花壇があり、サブ集会室のボリュームが見え隠れする。個人的な感想だが、建物の屋上というよりは、尾根道を歩きながら山岳集落を訪ねるような感覚に似ている。この空間体験は、おそらく世界を見回しても他にはないだろう。

#18:駐車場と化しているピロティ

■ピロティ
前述の通り、大高は晴海で断念したピロティを基町で実現させた。本作のピロティはユニテ・ダビタシオンと同じで歩行者の自由歩行や視線の抜けを確保する、すなわち大建築によって都市に迷惑をかけないための工夫であり、丹下の平和記念資料館のそれとは目的が違う。
ピロティ下で立ち上がりが生じる箇所でも、できるだけ1.5m程度に抑えられ、極力視線が抜けていくように配慮されている。駐車場と化しているのは残念ではあるが、もしピロティがなければひどく閉鎖的になっていたことを思うと、その効果を存分に発揮していることが理解できる。

#19:緑に覆われた人工地盤。その下には商店街がある。

#20:人工地盤下の商店街は、多くがシャッターが下りた状態。

■人工地盤
中央部のオープンスペース(全体では3haもある)には人工地盤が設けられている。1階は約8000m2のショッピングセンターで2階に歩行者動線を配置し、この通路を使って集会所や学校にアクセスすることができるよう計画することで歩車分離が図られている。人工地盤上が緑化されているのはいいとして、入れる部分が少ないのは残念。
一方、人工地盤下のショッピングセンターはシャッターが目立つ状態となっている。

店舗などの施設を中央オープンスペースに集中的に配置しているのは、店舗経営上の理由と同時に、環境上の理由にもよる。つまり、店舗の施設を数ヵ所に分散するとすれば、各住宅棟のピロティ部分に配置することになり、貴重なピロティのオープンスペースが少なくなるばかりでなく、せっかくの屋外連続空間が分断されてしまう。それに比べ中央部分に施設をまとめれば、その施設の屋根を屋上公園として利用できる大きなメリットをもつことになる。
(藤本昌也(1973)「設計計画概要」 雑誌 新建築 1973年5月号 より引用)

それは正論だとは思うけども、視認性が皆無の商業施設はミスプランニングと言われてもしょうがない。事実、基町の敷地内でも人工地盤下でない路面店タイプは視認性があるためか開いている割合が高い。
ちなみに、人工地盤下ではないが、敷地内には平和湯という銭湯もある。平和○○というのは当時の広島で流行したネーミングのパターン。


5:現状と今後

#21:川越しに住棟群を望む。

いくつかの文献にあたってみて感じたのは、基町は特殊ケースと言われることが多いが、合意形成・権利調整・補償・資金計画・外的要因に振り回される建築設計・竣工後の管理・区画店舗のシャッター街化・コミュニティ継続など、現代の再開発プロジェクトや宅地開発と同じ苦労をしているという点だった。確かに特殊なところはあるが、完成から時を経た再開発に一般的にどのような問題が起きてくるのかを知るには良い事例だ。
また、2015年現在では、広島市は基町エリアの活性化に取り組んでいる。改修による住戸規模拡大のほか、一部住戸では市営住宅の入居条件を緩和して若年層の転入を促そうとしている。また、大学のサテライト施設を設けて地域おこしを進める計画も動いている。特に業界内では遠い過去のプロジェクトと思われがちだが、現在進行中のエリアでもある。