一楽旅館

不詳 1950・1958

#1:本稿では向かって右を東側建物、左を西側建物と呼ぶことにする

#2:西側建物の吹抜空間。町家建築の坪庭のような小さなものだが、感覚的には実際より広さを感じる。吹抜上部の屋根は後付けに見えるが、床の木材がさほど傷んでいないので、何らかの雨よけが当初からあったのかもしれない。

広島にはかつて「西遊廓」「東遊郭」があった。いずれも戦災で焼失した後、いわゆる赤線として再興したが、1958年の売春防止法施行のタイミングで廃業(旅館に転業した者が多かった)となり現在に至っている。
一楽旅館は、戦後に再興した元・東遊郭の面影を最も留める建物である。まず東側建物が1950年に建ち、これを増築する形で1958年に西側建物が建った。つまり、遊廓時代の建物は東側建物だけなのだが、全体的に往時の空気感をよく伝えている。また、東側建物が建ったのは被爆5年後であり、復興第一世代の建築としても大変貴重なものだ。

外観

東側建物は柱を隠さず見せるオーソドックスな真壁づくりだ。一方の西側建物はモルタル塗りで足元は洗い出し仕上げ、そこに自由な造形の窓が付き、さらに水切り瓦が付く。かくして妙にゴテゴテとした外観になっている。 遊廓の建築の分かりやすい特徴は窓であり、装飾性が高く、高欄が付くのが一般的。本作も同様であるが、高欄は木製ではなくスチールで、アールデコに見えなくもないデザインが施されている。

室内に池という奔放さ

隅切り部にある玄関をくぐって室内に入ると、池が出現し回廊がめぐる吹抜空間に度肝を抜かれる。客室はこの回廊からアプローチするのだが、建設当初は回廊がぐるりと回っておらず、一部はタタキであったらしい。室内ながら”離れ”に行くような感覚だったのだろうか。この吹抜空間には後付けっぽい屋根が載っているが、回廊の材がそれほど傷んでいないので、当初から何らかの屋根は架かっていたものと推測する。

数寄屋風なディテール

西側建物のデザインは個性的で奔放なものだが、あくまで数寄屋がベースになっている。例えば二階に上がる階段では、曲がった材木をそのまま活かして手すりに使い、下地窓をいくつもあけているが、これらはまさに数寄屋の考え方だ。
客室は全てデザインが違う。桜の間の場合、踏込の床や扉に桜の模様があしらわれ、床柱などの要所に桜の木が使われている。また、一部の客室には浴室が付くが、居室と浴室をふすま一枚だけで仕切るという驚きの設計になっている。これが連れ込み宿の作法なのか、大工が浴室を分かっていなかったのか判断しかねるが、ワンダーランドらしくて興味深い。

泊まってみる

本作の場合、今なお現役の旅館として営業し続けているのも貴重だ。普段は非公開なので、この独特な空間を体験するには実際に宿泊されることをおすすめする。