広島市立本川小学校平和資料館

増田清 1928

平和公園から川を隔てた対岸に建つ小学校(原爆ドームまでの距離は250m)。本川小は日本で最も古い小学校の一つである。学区内には堺町・猫屋町といったエリアを抱えており、本通り・八丁堀方面に賑わいの中心が移るまでは、この周辺が広島最大の繁華街であった。
この学校は漫画「はだしのゲン」の劇中で「元川小学校」として登場するので、ひょっとしたらご存じの人もいるかもしれないが、実は私が6年間通った母校でもある。今回は自分自身の記憶と、さらに保存・改築工事の設計を担当された方のブログ記事からの引用などを通して、被爆建築の保存について(かなり主観的に)書いてみたい。

建物のプロフィール

#1:かつての姿(館内での掲示写真を撮影)。写真奥が西。手前の水面は本川で、そのすぐ手前に原爆ドームがある。爆風を正面から受けた左半分は戦後に取り壊され、L字だったプランは板状に変わった。残された右半分は「東校舎」として戦後も使われ続けた。(*3)

#2:平和資料館。僕ら的には”旧東校舎”(写真手前が西)。地上1階と地下の、設計時のL字プランにおける「角」にあたる部分が保存の対象。窓の手前の突出部は地下室への光庭。右奥にあるのは新しい東校舎。

関東大震災(1923年)以後、時代の要請として、地域防災拠点の役割を担う耐震・不燃校舎が、東京を筆頭に各地に建てられるようになった。(こちらを参照) この建物は広島市においてほぼ最初のRC造校舎とされる。完成当時の広島では(すぐ川の対岸に産業奨励館があったとはいえ)3階建ての建物すら珍しかったはずで、”都会の坊ちゃん”が通うハイカラ学校だったのだろうと想像する。

設計は大阪を拠点に活動していた建築家、増田清。増田はRCの構造に明るく、広島において「本川尋常高等小学校校舎」の他、「広島市役所(地下室を残して解体)」と「大正屋呉服店(広島市レストハウスとして現存)」「広島県農工銀行本店(解体)」を設計した。これら四つのRC建築は被爆時の爆風に耐えて戦後の長きに渡って使われ続け、その耐久性能を証明して見せた。(ただし、当時登校していた児童(*2)・教職員がほぼ全滅した事実を忘れてはならない。) 竣工当初の平面プランは同世代のRC校舎と同じくL字を描いていた(写真#1)が、1951年に損傷のひどかった南半分を撤去して板状になり、名称も「東校舎」となった。さらに、1956~1957年頃には、川沿いの道路建設のため、2スパン分を撤去している。そして1987年に解体され、ごく一部が平和資料館として保存工事を受け現在に至っている。

私がこの「旧東校舎」で過ごしたのは1年生の間だけ(たぶん1985年頃?)で、覚えていることといえば、階段室が暗くて陰鬱な空間だったこと、どこからか虫がわいたこと、教室から外に出るための引き戸が勝手に外れたことくらい。自分の教室は1階にあったが、アーチ窓は当時塞がれており、アーチだったという記憶はない。 また、地下室に行った記憶は一切ないので、恐らく閉鎖されていたと思われる。
解体された時の様子は(見ていて面白かったので)とてもよく覚えている。

部分保存の検討プロセス

#3:地下室へ下りる階段。ごく一部のみ装飾が残っている。

#4:躯体の中にボックスが置かれ展示スペースとなっている。

オリジナルが解体されたのは1987年であり、既に建築から60年(一般的にRCの耐用年限とされる)が経過していた。部分保存の検討プロセスについては、新東校舎の設計と旧東校舎の保存に携われた方のブログが非常に参考になるので、少し長いが引用する。

与えられた業務内容では、その校舎の“一部保存”が決まっていた。校舎等の配置などからは、使用しない建物を残しておく余裕がない。 “どこをどのように保存するか”が仕事だった。校舎は内外共に補修の上、仕上が施されていた。唯一手付かずの状態で残っていたのが、倉庫として使用されていただけの地下室である。
-(中略)-
この地下室と1階を保存部分とすることになった。新校舎等の配置にも適していた。地下室は現状のままでおき、1階に展示空間を設けるという方針で設計を進めた。
-(中略)-
1階については、補修や新たに設けられた仕上材等を撤去する。展示空間とするためには、風雨を防ぎつつ管理する必要がある。それで、材質は異なっているが、アーチ状の建具を復元設置する。保存部分と展示品を区別するために、敢えて異質な展示用ボックスを置く。
-(中略)-
新校舎の設計についての所管課の注文は、「目立たない建物にするように」だった。平和公園と原爆ドームのすぐ近くに位置しているための配慮である。
旧校舎のデザインを少しだけ拝借した。横目地、縦長の開口部、窓の奥行きなどである。アーチ状の窓は到底無理だ。当時の佇まいには及ばないのが、少し残念でもあった。
(hihitera氏ブログ「アーキテクト・メモリー&ダイアリー」 より引用)

確かに新東校舎の配置や見学者動線を考えるとこの部分を残すのが最も合理的であり、「部分保存」という枠の中ではこれが最適解と理解できる。外観(写真#1)が打ち放しのように見えるのは、戦後補修されたモルタル(アーチ窓を塞いでいた)を除去した状態での保存という方針の現れと思われる。

被爆建築の保存とその価値とは何か?

(ここから先はあくまで私個人の主観的な感想であり意見です。なので、こういう奴もいるのか程度に軽く受け流してください)
卒業以来遠ざかっていた小学校を久々に訪問して、例によって写真を撮っていたのだが、そのうち徐々に違和感を覚えるようになってきた。今の旧東校舎は、被爆時のまま残されていた地下室を中心に、焼け跡などの生々しい痕跡が見て取れ、ある種の存在感を放っている。だが、私の記憶の中の旧東校舎はこんな廃墟ではない。外壁にはちゃんと白ペンキが塗られていて、ボロくて暗いけどどこか暖かみのある建物だった(今の西校舎の佇まいに近いイメージ:写真#8)。 つまり、もうこの建物は戦後の卒業生の思い出とは関係なく、平和学習の用に供するため、ある特定のメッセージを伝えたいがために被爆時の姿に復元されたということだ。
この平和資料館は見学可能な被爆建築ということで、それなりに見学者も多く、保存の目的は達したと評価することはできる。しかし、それでもあえて疑問を呈したい。私は常々「被爆建築である」ことは、長い時を過ごしてきた建物のプロフィールの一部に過ぎないと考えている。従って、「被爆建物を被爆時の姿で残す価値」と「被爆後も改造されながら多くの人の役に立ってきた価値」とを比べて後者を否定するのが正しいとはどうしても思えない。つまり、(無理を承知で書かせてもらうが)このような一部保存ではなく制震・免震化(*3)してでも全体保存を行い、地下室については平和資料館として使うというのが、この事例における最適解だったし、この建築にはそれだけの価値があった。
そこで気になるのが、残された西校舎(1951年)・南校舎(1957年)・管理校舎(1954年)の運命。特に西校舎(写真#8)は大きな窓が印象的な古き良きモダニズムの趣を感じさせる良作で、戦後の建物とはいえ、平和資料館や世界平和記念聖堂より古い1951年の竣工である。私の中では文化財級の扱いなのだが、今のままでは予算が付き次第跡形もなく取り壊されるのだろう。戦災で建物が壊れると「悲劇」だが、経済的理由で取り壊すのは問題ない…。被爆建物でないものは保存の議論すら必要ない…。本当にそうなのか?レストハウスのところでも書いたけど、この違和感はやはり消えそうにない。