小島の旧軍施設

不詳

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#2:芸予要塞と広島湾要塞

[注意] 島内は公園として整備されていますが、一部足元の悪い箇所もあり、見学時の行動は全て自己責任で行うようにお願いします。何らかの事故等に遭遇したとしても当サイトは一切の責任を負いませんのでご注意ください。


かつての芸予要塞跡。明治期に瀬戸内海各所に建設された砲台のうち、施設群が揃って良好な状態で残っているケースは珍しく、貴重な存在となっている。
島内は徒歩で回るのが基本であり、今回紹介した箇所をかけ足で見るなら2時間半、全てをくまなく見て回るには4時間程度が必要だ。特に夏場は必ず水を持参するなど熱中症対策を万全にして行くようにしたい。

芸予要塞の成り立ち

明治時代、敵国の戦艦の侵入をどう防ぐかは国防上の重要なテーマであり、全国各地に砲台が建設されていた。当時は砲の射程が短く、豊後水道では幅が広すぎて防衛が難しいため瀬戸内海で迎撃せざるをえず、芸予要塞と称して広島県の大久野島と愛媛県の小島に砲台が建設された。設計に関与した上原勇作(当時大佐、のち元帥)はフランス仕込みの近代要塞の専門家で、工兵の育成に取り組んだ軍人として知られている。
小島では山頂部の中部砲台、沿岸部の北部・南部砲台、計3箇所に16門が設置された。主力の28cm榴弾砲は日露戦争が始まると前線に移設され使用されたが、砲台そのものは実戦を経験することはなかった。日露戦争後に砲の射程が伸び、佐田岬半島に豊予要塞が建設されると芸予要塞の存在価値は急速に薄れ、砲台は廃止となった。

砲台廃止後の歩みは二島で全く異なる。大久野島は引き続き陸軍が居座り、毒ガスの島へと変貌したが、小島では地元の嘆願活動もあり公園として再整備されることになり、現在に至っている。なお、忠海の芸予要塞司令部については紡績会社の社屋として現存する。

(1)発電所跡(南部)

レンガ造の小さな石炭火力発電所で、南部探照灯(サーチライト)向けに電力を供給していた。発電機などの設備は取り払われており、屋根は近年の補修時に瓦から鋼板に変更されるなどしているが、保存状態は良好だ。

(2)南部砲台跡

ここには沿岸砲として12cmカノン砲が2門据え付けられていた。石・レンガで壁を作り、無筋コンクリートの屋根を載せ、カムフラージュのため人工的な盛土で覆っている。この構造は他の砲台も共通している。

(3)弾薬庫跡

レンガ造の弾薬庫。通風に配慮してか、床下にも空間が設けられている。木造瓦葺きの屋根は既にない。また、周囲は爆発事故に備えた土塁で囲まれている。ちなみに、この公園のサイン計画はへたくそで、案内板がまるで嫌がらせのようにジャマな位置にある。

(4・5)中部砲台跡

山頂部に設けられた砲台。ここには主力の28cm榴弾砲6門と司令塔が置かれており、敵が上陸した際の近接戦闘にもある程度耐えるように計画されていたらしい。司令塔周辺は瀬戸内海を一望できるため、現在でも展望台となっている。砲台の構造は石・レンガ・コンクリートに盛土を組み合わせるスタイルで、他事例と同様。保存状態は申し分なく、比較的容易に見学できる。

(6)発電所跡(北部)

北部探照灯(サーチライト)向けの火力発電所。南部砲台近くの発電所と似通っているが、屋根は切妻ではなく陸屋根となっており、当時としては非常に珍しい鉄筋コンクリートが使われている。

(7)北部砲台跡

北部砲台は24cmカノン砲4門と9cm砲4門が設置され、司令塔や探照灯(サーチライト)設備も整っていた。
注目されるのは、一部が破壊されている点だ。陸軍は砲台廃止後に、小島を目標とする航空機の爆撃訓練を行っている。実際にはあまり命中しなかったようだが、その際に掩蓋に穴があいたため、断面構造を観察することができる。

(8)来島海峡

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要塞見学のついでに海際の道を歩くと、来島海峡の様子を間近に見ることができる。さすが世界有数の”海の難所”と呼ばれるだけのことはあり、潮流の早さは海というよりは川の激流に近い。
古来より来島一帯は海賊衆の拠点として知られていた。重要な航路のただ中にあり、しかも潮流が複雑で防衛に適していたためであるが、そこが近代要塞の適地ともなるのはある種の必然性を感じさせる。