牛田浄水場配水池

不詳 1898-

[注意] 現役の水道施設であり、通常は非公開です。


牛田は広島の近代水道発祥の地で、今なお稼働する浄水場には明治~昭和戦前期に建設された施設が一部残っている。本稿の前半では広島の近代水道史や牛田浄水場全体の状況の概観、後半では非公開の配水池に絞って紹介する。

水道敷設の歴史

#1:3号配水井上屋の内部(通常非公開)

#2:祇園新道やプール建設前の浄水場の状況。
 A:緩速ろ過池のこの部分は一部保存されている。
 B:旧送水ポンプ室は水道資料館として現存。
 C:1・2号配水池(1号は1898年と1908年、2号は1935年頃)
 D:3号配水池(1924年)
写真出典:国土画像情報(カラー空中写真・昭和56年度)国土交通省

日本の水道レベルは世界最高で、私たちはいつでも蛇口をひねれば安全な水を手に入れることができる。浄水場に高度処理が導入された地域なら、ペットボトルで売っている水よりも水道水の方が品質が高いほどだ。だが、近代以前にそのようなものはなく、人口密集地で安全な水を手に入れるのは容易ではなかった。
江戸時代の一部の都市では、河川水を取水して水路で市中に引き込み、市街地では地下に木管を埋設して供給する水道施設が整備されていた(近代水道と違って浄水場などはない)。江戸の玉川上水が有名だが、近いところでは福山にもあったという。しかし川の多い広島では江戸のようにはいかず、水道施設は整備されていなかった。砂州であるため井戸を掘っても塩分が入ることが多く、かくして庶民は商売人から水を買うか、目の前を流れている川の水を飲むしかなかったようだ。
明治に入り近代化の過程で人口が急増すると衛生状態の悪化が深刻化する。しかし国内での近代水道整備は、横浜や函館など外国船への水供給が必要だった開港地が先行し、財源の乏しい地方都市では遅れていた。 1894年に日清戦争が勃発すると広島は臨時帝都となり、明治天皇を筆頭に大本営・政府・帝国議会が東京から広島へ移転、さらに膨大な数の兵隊が全国から集結したが、そのような要衝に水道がないというのは大問題であった。伊藤博文や児玉源太郎らが動いたことで、天皇の勅令により国費で軍用水道を建設するという異例の措置がとられ(実際に勅令が出たのは日清戦争後)、1898年に完成、同時に整備された市街地の水道管を軍用水道に接続することで広島はようやく近代水道を持つことになった。(*1)
こういった経緯で建設されたのが牛田浄水場である。設計は、勅令が出る以前に広島市がイギリス人技師バートン(William Kinninmond BURTON)に依頼し作成されていたプランを踏襲する形となっている。完成後は水需要の増大に対応して数度に渡り拡張され、西部市街地向けに己斐調整場を建設するなど広域化されていった。

現存する施設

まずは浄水場での水の大まかな流れを説明する。河川から取水された水はまず沈殿池でゴミや濁りを除かれ、緩速ろ過池に導かれて時間をかけてろ過される。処理が終わった上水はポンプで裏山の配水池へ送られて一時貯留され、水需要の増減に対応する。市街地へ給水するために必要な水圧は、配水池がある高台と街との高低差から得る。送水の途中では量水室を通り、水量の計測が行われる。
現存する施設としては、緩速ろ過池のごく一部が保存されておりフェンス越しに外観見学できる(写真#3)ほか、送水ポンプ室と量水室も現存しており(写真#4)、ポンプ室は広島市水道資料館として利用されている(写真#5)。量水室は水道資料館の別館となっているが普段は閉まっている。
また、少し変わったものとしては、牛田浄水場敷地内の小さな神社がある。神田神社といい、もともとは安芸国守護であった武田氏が本家のある甲斐国から奉遷した神田八幡宮を起源とする。明治期に牛田が陸軍用地になると宇品へ移転することになり、惜しんだ地元住民が分社を建てたが、戦後に陸軍用地を市に移管する際に一帯は浄水場の敷地となってしまう。かくして浄水場内の神社いう形で現在に至っている(写真#6)。

配水池について

#7:1・2号配水池の上屋

#8:3号配水井上屋の外観

#9:3号配水池の内部

配水池のうち、戦前期のものは1~3号の三箇所ありいずれも稼働中である。もちろん普段は非公開の施設だが、特別に許可を得て見学できたので、ここでは配水池に絞ってレポートする。
1号配水池が水道建設当初のもので(*2)、2号配水池は昭和初期の第3次拡張時に増設された。1・2号配水池の上屋は昭和初期のもので、己斐調整場にも似たデザイン。表現主義の影響を感じさせる(写真#7)。
1号配水池自体の構造は石造+コンクリート造(鉄筋が入っているかは不明)。2号はRC造と思われる。
3号配水池に目を転じると、こちらには少し大きめの建物がある。これは配水井上屋という(配水井とは配水池からの水の出口にあたる施設)。縦長の窓に水平アーチ、上を見るとコーニスにパラペットが付く(写真#8)。まだ様式が残っていた時代のデザインであり、大正期なら納得がいく。資料によると石造とあるが、内部空間(写真#1)はどう見てもRCであり、1924年という年代から見ても組積造はちょっと考えにくく、同年竣工の旧送水ポンプ室(写真#5)もRC造であることから、RC造の石貼りと推測する。
3号配水池の内部は、導流壁はRC造のレンガ貼りといい、これは見た目にも明らかだ(写真#9)。一方、点検通路の頭上のアーチはレンガの組積造とのことだが、これもRC造レンガ貼りのように見える。

知られざる被爆建物の発見

さて、広島市作成の被爆建物リストを見ると、牛田浄水場では緩速ろ過池跡の建屋(写真#3)は「旧濾過調整池上屋」として登録されているが、これら配水池については記載がない。まさに知られざる被爆建築というべき存在だ。稼働中の重要施設であるため一般公開はムリとしても、その存在のアピールだけでもやっておいて然るべきと思う。
また、そもそも広島都市部の近代化遺産は数を減らし続けており、その痕跡すら辿れなくなってきている。そんな中にあって本作の存在感は際だつものがある。