イエズス会聖ヨハネ修道院

イグナチオ・グロッパー? 1938

[注意] 聖堂は開かれていますが、建物見学のみでの訪問は控えるようにしてください。


#1

広島デルタの北側、長束の小高い丘に建つ修道院。今回特別に見学する機会を得たのでレポートしたい。なお本作については文献等の調査が不十分なので、全般的に推論(憶測を含む)が多くなっている点に注意頂きたい。なお写真#1~13は被爆建物である旧修練院部分である。

広島におけるイエズス会の活動

#2:エントランスは側面にある。

イエズス会はカトリックの修道会の一つ。日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルはイエズス会創立メンバーの一人であるなど、日本との関わりも深い。江戸時代に途絶えたキリスト教勢力は明治になると日本での活動を再開し、特に中国地方はドイツのイエズス会がカトリック布教の中心を担ったこともあり、多くのドイツ人神父が広島へ赴任してきた。その中でも特に知られているのは、幟町教会で被爆し世界平和記念聖堂建立の立役者となったフーゴー・ラサールであろう。
イエズス会日本管区の上長であったラサール神父は、日本管区本部を東京から広島に移転させ、上智大学にあった修練院も広島へ移すこととし、1938年に長束の地に修練院を建設した。これが今も残る修道院の木造の建物である。修練院とはイエズス会への入会志願者が初期養成を受ける機関であり、2005年に東京に再移転するまで、日本のほぼ全てのイエズス会士はこの地で養成されていた。
被爆時の爆風は爆心地から距離のあった長束にも多くの被害をもたらし、修練院の建物も爆心地側の柱が折れるなどの被害があった。当時の院長だったペドロ・アルペ神父は医術の心得があり、市内から避難してくる負傷者に聖堂を開放して救護活動にあたった。幟町教会で被爆し重傷を負ったラサール神父もここで治療を受けたという。ちなみにアルペ神父は後にイエズス会総長を務めている。

カトリック修道院が近代和風建築という謎

#3:和風だが各所に十字架が付いている。

#4:聖堂内部。和風だがまさかの三廊式。身廊の上部だけ吹寄格天井。天高は4mくらいある。

本作の最大の特徴は、カトリック修道院(当初は修練院)なのに和風という点だ。既存の和風建物を教会として使う例や、日本人信者を考慮して洋館の中に畳を敷いた教会の事例はよく見るが、新築なのに丸ごと和風にしたというのはあまり聞いたことがない。外観を見てみると、懸魚や扉には十字架が付いている。きわめつけは聖堂脇にある鐘楼で、三重塔のようなものの上に十字架が載っている(この三重塔は内部にアクセスルートが無く、はしごで外からアプローチするようだ)。和風にした理由は、文献には周辺の仏教徒の目を気にして和風にした等の記述があるが、本当にそれだけなのかは疑問であり、真相は謎である。

内部も大変興味深い。木造三階のボリュームに付属する形で平屋の聖堂が付くが、この聖堂は畳敷きの和室なのに三廊式バシリカを意識した空間となっている。側廊っぽい空間の先には床の間があり、花が生けられ掛け軸がかかっており「ヨハネ第一の手紙」などと書いてある。上を見ると、格天井だが身廊っぽい空間の上部だけが吹寄格天井になっており、船肘木も見える。横を見ると真壁に長押がまわり釘隠しも付く。
これほど見事に和風デザインで聖堂を作りあげ、しかも見事に運用しているとは驚異的である。

一方で、完全な和風とも言いきれないのがスケールだ。基本的な考え方は6尺モジュールの「関東間」の考え方で、列柱の間隔は15尺(4545mm)、修道院の廊下幅は7尺5寸。ゆったりしているが基本的に和のスケールといえる。一方で、聖堂の天高は4mあり、扉のサイズにも余裕がある。さらに意外なのが階段の寸法(踏面275mm、蹴上180mm)で、和風はもちろん戦前期の洋館でもあまり見かけない緩やかなものである。このあたりは外国人神父を想定した設計とも考えられる。


設計者の謎

#13:小屋組は短いスパンだが和小屋でなくトラス。トラスなのに母屋が水平なのも特徴的。

本作の設計者は不明であるが、上智大学を拠点に国内のイエズス会施設の設計を担っていたドイツ人修道士イグナチオ・グロッパー(*1)が関与した可能性が高い。グロッパー修道士は来日後、まず関東大震災で半壊した上智大学(原爆ドームで知られるヤン・レツルによる設計)の再建を担った経緯もあり、建物を極めて頑丈に設計する傾向がある。例えばグロッパー修道士が設計した幟町教会の司祭館は木造ながら被爆時の爆風に耐え(後の火災で焼失)、ラサール神父らの命を救った。本作においても、戦前期の木造3階建てながら今なお狂い無く使用されている事実からも設計の堅実さがうかがえる。 また、本作の平面計画は左右対称に近く洋館を思わせ、小屋組は小スパンでもトラス(しかも部材がやたらと太い)が採用されている。階段は和風のそれではなく完全に洋館のスケールであり、聖堂は和室だが三廊式を連想させるなど、随所に外国人の関与を感じさせる。ただし寸法はメートルではなく尺貫法である。 以上を踏まえた私の推理としては、グロッパー修道士が構造を含む基本設計を行い、実際の施工やディテールの追い込みは現場の日本人大工に任せた…のではないだろうか。

その他の部分

敷地内には戦後に建てられたRCの建物もあり(写真#14-15)こちらもグロッパー修道士の関与が濃厚だ。和風ではなく洋館の作法でデザインされていて(こちらの聖堂は和風ではない)、そこに和風の屋根がちょこんと載っており、いわゆる帝冠様式に近い。