耕三寺

耕三寺耕三 1938-1964

#1:耕三寺のシンボル「孝養門」

#2:立体的な境内

瀬戸田に残る大伽藍。その華やかさから「西の日光」と呼ばれることもある。いろいろな意味で、瀬戸内の建築パラダイスというべき独特な場所となっている。

耕三寺の建立経緯

耕三寺には多種多様な堂塔が並び、15棟が登録有形文化財になっているが、本作の建築的な価値を論じるのはなかなかに難しい。まずは経緯から記してみよう。
耕三寺を建立したのは福岡県直方(のおがた)出身の金本福松(1891-1970)。鋼管溶接工から技師に転じ、大阪に鋼管製造会社を興して成功した実業家である。1929年には、余生を送る母親のために母の故郷である瀬戸田に潮聲閣という住宅を建てた。1934年に母が死去すると、潮聲閣の周辺に大寺院を建設することを思い立ち、1935年に金本耕三に改名(*1)。1938年には仏宝蔵、1940年には山門が竣工するなど建設が進み、1964年に孝養門が竣工したことで現在の伽藍が概ね整った。なお「未来心の丘」は耕三住職の死後に整備されたものである。

境内の配置計画

耕三寺の境内は斜面地に三つの段を作り、そこに中心軸を通して左右対称に施設群を配置している。他には例のない伽藍配置で、仏教どうこうというよりは耕三住職の独創であろう。それぞれの段にはアイストップとなる建物を置き、視線を上下動させながら高低差のある境内を巡らせるよう工夫されている。
普通の寺院と比べると建物同士が密集しすぎているようにも思えるが、立体的な境内に堂塔が隙間なく並ぶさまは壮観でありインパクトがある。

圧巻のコピー建築群

#3:孝養門のディテール。細部は陽明門とは異なるが、彫刻と絵との違いは目に付いてしまう。

個々の建築については評価が難しい。というのも、境内に残る多くの堂塔は有名建築のコピーであるためだ。しかも、例えば上段には平等院鳳凰堂のコピーと日光東照宮陽明門のコピーが向かい合っているなど、オリジナルの場所・時代・様式ともバラバラであり、ムリヤリ感がある。なお、全てが全く同じというわけでもなく、細部や色彩はオリジナルとは異なるし、山門や五重塔では木の代わりに鉄を多用するなど、耕三住職らしさも織り込まれている。
とはいえ、例えば孝養門はコピー元である陽明門の寸法を忠実に再現しているが、彫刻の代わり?に絵で済ませている箇所も多く、壮麗な彫刻を全身にまとう陽明門とは別物になっている。それは意図的に行われたものとしても、誰もが「元ネタ」を知っているのだから、どうしても劣化コピーとの印象を受けてしまう。

このように何とも評価が難しいのだが、人にどう思われようとも建立に邁進し完成させた情熱は空間からも感じられるし、戦前期~高度成長期のまだ日本の大工が高い水準を保っていた時代の建立でもあり、建物のレベルは決して低くはない(超ハイレベル建築であるコピー元と比べるのは酷である)。
なお、耕三寺のホームページでは各建物について丁寧に解説しているので、詳しくはそちらを参照頂きたい。


大理石の山

#12

伽藍から離れて奥に進むと、未来心の丘なる庭園がある。これは彫刻家 杭谷一東による作品で、12年の歳月をかけイタリア産大理石で飾り立てられた5000平米の空間が出現した。確かにインパクトは絶大なのだが、この表現だと仏教というよりは神様か天使様の方が似合うように思える。周囲が中東の砂漠ならまだしも、ここは瀬戸内海の島であり、風景のコントラストも大変印象的である。

このように、評価は難しいながらも、他では経験できない空間体験ができるのは間違いないので、建築好きならばとりあえず行くことをすすめる。なお、敷地内にある潮聲閣(別ページにて紹介)は県内に現存する最高級の邸宅というべき大傑作なので、忘れずに訪問するようにしたい。