平和記念公園慰霊碑

丹下健三 1952/1985

平和記念公園の中心、平和大通りから資料館をくぐり原爆ドームへと伸びる軸線のただ中にある慰霊碑。初代はRC造、現在のものは同じ形を御影石で作った二代目である。

幻となったイサム・ノグチのデザイン

この碑のことを語る際に必ず出てくる話題が、日系アメリカ人彫刻家イサム・ノグチによる幻の案だ。平和記念公園全体の設計を担当した建築家丹下健三は、平和大橋の欄干デザインに続いて、この慰霊碑もノグチに任せようとしていた。

(略)- 彼はただちに、わたくしたちの作業場にきて、何かに憑れた人のように、粘土とたたかいはじめた。地表に現われる部分は小さいものであったが、おおらかな気宇が溢れているものであった。古代日本の玉のようなもののなかに、彼のプロトタイプが見出せそうに思われた。
(雑誌「新建築」1954年1月号より引用)

ノグチが作り上げた造形は本人によると家型ハニワ、丹下の印象では「古代日本の玉(勾玉?)」のような形であった。逆U字形のモニュメントの大部分は地下に埋められ祈りの空間が設けられていた。平和記念資料館(陳列館)で伊勢神宮に見る古代日本の力強さを表現した丹下の方針にはフィットした造形であったことだろう。
丹下は濱井市長*1の同意を取り付けてノグチ案を実現させようとしたが、平和記念公園の審議会から待ったをかけられてしまう。特に当時の建築界の実力者にして審議会委員でもあった岸田日出刀の反対は大きく、教え子である丹下に「君とノグチの友情とこのわれわれみなの気持、君はどちらかを選び、どちらかを捨てなければならない。」と迫った。

(略)- ノグチ案の審議にあたり、「この大切な記念施設のヘソに当る慰霊堂は、何としても日本人の手による作でありたい。しかも当代希にみるすぐれた青年建築家丹下健三が一等当選者となり、精魂を傾けてその計画設計に当るべき慰霊堂の設計を、何を好んでアメリカの彫刻家イサム・ノグチにやってもらう必要があるのか?」 とわたくしは熱心に強く主張した。
(岸田日出刀 著「縁」より引用)

#1:慰霊碑を通して原爆ドームが見える。慰霊碑の背後には水盤が置かれ、軸線上に人が立ち入らないように工夫されている。

結局丹下がノグチと同じ逆U字のプランでデザインをやり直し、慰霊碑(初代)は1952年8月に竣工した。ノグチ案にあった地下空間は実現しなかった。日系人であるノグチは日米双方の社会に拒絶される苦難を味わうが、このエピソードはその最たるものとして知られている。

家型ハニワを連想させるHPシェル

#2:双曲放物面

慰霊碑の造形も改めて見てみよう。地下に収められている被爆者の名簿を風雨から守る家型ハニワの造形という説明をされることが多いが、同時にきれいなHPシェルになっていることに気づく。HPとは鞍型の双曲放物面であり、慰霊碑を正面から見ると放物線、横から見ると双曲線のシルエットになっている。これを用いたシェル構造は壁と屋根が一体化するもので、薄い材料で大スパンを飛ばせる利点があるとされ、丹下は東京カテドラルなどでも好んで使っている。推測だが、HPシェルによって部材(初代はRC)を薄くして見付を小さくし、平和記念公園のデザインのキモである、平和大通りから原爆ドームに伸びる視線をできるだけ遮らないようにした…のかもしれない。

いま一度、丹下のコンペ案に立ち戻ってみる

#3:平和記念公園コンペ時の丹下案(CC対象外)

個人的に、ノグチ案は否決されて良かったと思っている。それは岸田が言うようなノグチの出自の問題ではなく、プラン上の問題だ。すなわち、ノグチ案では巨大なモニュメントが公園中央に居座って平和大通りから原爆ドームへの視界を遮り、軸線を切ってしまうわけで、平和記念公園全体のデザインコンセプトを崩しかねなかった。
ではなぜ丹下はこのノグチ案を支持したのだろうか? 完全に推測になるが、丹下がコンペ時に作成した当初案に立ち戻ると少し見方が変わってくる。この丹下案は明らかにル・コルビュジェによるソビエトパレス(コンペ応募案)の影響下にあり、現在慰霊碑のある中心部には大アーチとモニュメントが置かれている。確かに資料館=鳥居、大アーチ=拝殿、原爆ドーム=本殿 …という一方向を向いた神社的な空間構成とも解釈できるが、つづみ形の道路により、資料館からも原爆ドームからもセンターに軸が伸びているという解釈もできる。もし丹下の意識が軸線というよりはセンターポイントにあったならば、そこにノグチが象徴的なモニュメントを建てるのは問題でも何でもない。
結果的にノグチ案は否決されてきれいに軸線が通ったわけだが、幻のプランを頭に描きながら現地を見ると、また見え方も変わってくる。