本川橋

不詳 1897/1949

平和記念公園から西側の堺町・猫屋町方面へ向かう橋梁。今でこそ抜け道として通過する車両の多い地味な存在だが、実は広島に数多くある橋の中で最もエピソードと地霊に富んだ存在だ。通っていた小学校から徒歩1分という身近な存在で見落としていたためか、自分にとって歴史を知ることで”見える風景”がこれほど変わった場所も珍しい。

盛り場だった本川橋(猫屋橋)橋詰

#1:本川橋西側の橋詰に雁木が残る。手前の石柱が船つなぎ石で、折れていたものが最近修復された。河岸には戦後の復興区画整理で緑地が整備され、60年の時を経て風景として成熟してきた。

江戸時代の広島では防衛上の見地から川1つにつき橋は原則1カ所に限定されていた。川と同じ名前を冠した橋がそれにあたり、東から猿猴橋・京橋・平田屋橋(現存せず)・元安橋・猫屋橋(本川橋)・小屋橋(天満橋)である。すなわちそれは旧西国街道の橋でもあった。当時の本川橋は付近の豪商である猫屋が資金を出して架橋したため猫屋橋と呼ばれており、川の名前も猫屋川であった。
さて、江戸時代の広島では荷車の使用が禁じられていたこともあり、物流は水運に強く依存していた。当時は宇品港もなく、大型船は浅瀬を避けて江波などの外港を利用するしかなかったが、喫水の浅い船は瀬戸内海から猫屋川に入ってくることもあった。帆船は橋をくぐれないから、橋の手前に停泊して荷揚げをすることになる。こうして本川橋周辺は物流拠点となり、商家が建ち並ぶ広島最大の繁華街となった。
当時の建物はもちろん現存しないが、本川橋西側の橋詰めから雁木を降りると、船つなぎ石を見ることができる(写真#2)。雁木の建設年代は不明であるが、江戸時代の可能性もある。

近代橋梁の架橋

#2:明治末期頃の本川橋(絵葉書より)。橋脚部分はそのまま現存する。アングルは上記写真と真逆で、手前が東。(CC対象外)

明治維新を迎えると都市は徐々に近代化されていったが、旧西国街道は幹線道路であり続けた(ちなみに広島市の道路元標は元安橋の橋詰にある)。
猫屋橋は本川橋と名を改め、1897年に架け替えられた。広島初の鉄橋ということもあって名所となったという。よほど観光客が集まったのか、本川饅頭という土産品も生まれた(つい最近まで看板を見かけたのだが…)。
被爆時には落橋こそしなかったものの橋桁が移動して通行不能となり、直後の枕崎台風で完全に崩壊、橋脚だけが残った。

今なお残る旧光海軍工廠の部材

#3:現状

極端な物資不足の中でも優先的に復旧する必要があったためか、橋脚をそのまま利用して1949年に鉄橋が再建された。以来、ほぼそのままの形で現在に至っている。
この鉄橋の材料がどこから来たのかは謎であったが、光海軍工廠に由来するとの新証言が出ている。光海軍工廠(山口県光市)は1940年に完成した新しい工場であったが、終戦間際の空襲により壊滅している。どうやら焼け落ちた建屋の構造材から使えそうなものをここまで運んできたらしい。海田町の九十九(つくも)橋が光工廠に由来することは知られていたが、本川橋も同様であるようだ。
さて、自分の中でまだ謎なのが橋脚の構造だ。19世紀にRCは考えにくいので、レンガ造の石張りと推測しているが、不覚ながらまだ確証が持てない。