不動院

不詳 1540

広島デルタの北端部に建つ寺院。戦災によりほぼ全ての木造の名品を失った広島において奇跡的に被災を免れ、江戸時代以前のたたずまいをよく留めている。中でも金堂は広島市唯一の国宝に指定されている。アストラムラインの駅から近く、都心からもアクセスしやすい。

安芸安国寺の成立と再建

#1:楼門と金堂

もともと安芸国の中心地は国衙が置かれた現在の府中町あたりであったが、平安時代には太田川の舟運などにより佐東と呼ばれる当地あたりも栄えるようになり、本作の前身となる寺院が建立されたようだ。ちなみに後に広島となる場所は何もない砂州に過ぎなかった。
この寺は室町時代には地域随一の大寺院となり、足利政権のもと臨済宗安国寺となり安芸国守護である武田氏の菩提寺ともなったが、戦国の動乱の中で焼失してしまう(*1)。さらに1541年に武田氏が毛利氏に敗れ滅亡すると、武田氏一族であった恵瓊(えけい)は出家して安国寺に身を寄せ、さらに京都 東福寺に移る(*2)。
大内・尼子を滅亡させ中国地方の大大名となった毛利氏は東福寺住職の恵心と関係があり、その縁で恵瓊は毛利氏に接近、1574年に安国寺の住職となったようである。以後、恵瓊は毛利氏の外交僧として活動。水攻めで有名な高松城攻防戦では織田軍の羽柴秀吉と交渉し和議を結ぶ。こうした経緯から秀吉にも近くなり、秀吉が天下人となる中で恵瓊も権勢をふるうことになる。

こうして大きな権力と財力を手にした恵瓊が取り組んだのが、安国寺の再建だった。天正年間に楼門、鐘楼、方丈などを続々と整備していき、目玉となる金堂は、山口から移築(大内氏が山口に建立した凌雲寺仏殿と思われる)して充てることにした。それが現在の不動院金堂である。
毛利氏が覇権を握る以前は大内氏こそ西国を支配する大大名であり、当時の山口は荒れ果てた京都をしのぐ日本の文化的な中心地の一つであった。おそらく恵瓊はその山口に残っていた禅宗様建築の最高のものを移築しようとしたはずで、凌雲寺仏殿は当時から国内最高クラスの禅宗様建築として評価されていたと思われる。
その後の経緯についても書いておこう。こうして再興された安国寺だったが、1600年の関ヶ原の戦いで西軍に荷担した恵瓊が処刑され、毛利氏も長州に転封されると状況が一変する。毛利輝元に代わって広島城に入った福島正則は、自らの祈祷僧であった宥珍(ゆうちん)を住職とした。宥珍は真言宗の僧侶であったので、寺の宗派も禅宗(臨済宗)から真言宗に変更となり、名も安国寺から不動院に変わった。

金堂の見どころ

#2:金堂

では、不動院の中心である金堂を鑑賞していこう。
鎌倉時代に中国大陸からやってきた禅宗は、新たな建築様式ももたらした。これを禅宗様(唐様)といい、平安時代に遣唐使を中止して以来独自に発達させてきた「和様」とは区別される。不動院は禅宗ではないが、もともとは禅宗であり、ふさわしい建物として前述の通り恵瓊が移築整備した。
本作は禅宗様仏殿建築として国内最高クラスとされる。何が最高かというと、まず分かりやすいのが建物のサイズで、現存する国内最大級とされる。外観を見ると二階建てに見えるが、実際は平屋である。下の屋根は裳階(もこし)という。この裳階の下は正面が1スパン分吹きさらしになっており、大陸からやってきた禅宗様の当初のスタイルをとどめているようだ。吹きさらしの先にある扉は桟唐戸。

柿葺(こけらぶき)の屋根には禅宗様に共通する「反り」があり、隅が天に向かってツンと伸びている様子はいかにも中国っぽい。裏側をのぞき込むと、垂木が放射状に広がっている。扇垂木といい、これも禅宗様の特徴(和様は平行垂木)。
窓は花頭窓(火灯窓)といい、これも禅宗様の特徴。花頭窓の中には形がくにゃ~っとしすぎたものもあるが、本作の窓は曲げすぎないシャープなラインをみせる。花頭窓の上には欄間(弓欄間)が付く。

内部は通常非公開だが、建物自体が大きいうえに、虹梁や大瓶束を使用して構造を持たせることで柱を減らし、かなりの大空間となっている。


その他の建物

金堂以外では、楼門と鐘楼が国指定重要文化財となっている。