古江修道院 [現存せず]

竹中工務店 1957

#1:丘の上に建つ

戦災で中心部の全ての木造建築を失った広島では、必然的に復興期のRC造のモダニズムが建築的特徴ということになる。特に平和記念資料館と世界平和記念聖堂という2つの重文の存在感が圧倒的であるが、それらの影に隠れた同時代の建物も多い。 広島の西部市街地、古江の山の上に建つ古江修道院もその一つ。フランシスコ・ザビエルでおなじみのイエズス会系列の修道院で、同じくイエズス会系である広島学院の敷地内にあった。解体直前に内部見学する機会を得たのでレポートしたい。

建設時期

#2:聖堂内は引き戸や照明など、モダンな中に和を感じさせる。

前述の通り、本作は広島の復興期モダニズムの一つに数えられる。年代を記すと、世界平和記念聖堂(1954)、平和記念資料館(1955)、広島学院校舎第一期(1956)、広島学院校舎第二期・古江修道院(1957)という順番になる。これらは戦後の早い時期に構想された”復興第一世代”とでも言うべき建築群である。

デザインが異なる謎

#3:左側の聖堂は横連窓やピロティを備える(=モダン)。右側の修道院は壁主体の保守的なスタイル(=レトロ)。異なるデザインがエントランス回りでつながっている。

本作は、西側に聖堂、東側に修道院が配され、その接続部分にエントランスがある。興味深いのは両者でデザインが大きく異なる点だ。聖堂部分はRCの柱・梁を見せつつ、横連窓(引き戸)を備え、コンクリートブロックによるスクリーンやピロティ、特徴的な外階段を持つ。つまり聖堂部分はモダニズムの要素を備え、和風すら感じさせるスタイルとなっている。一方、修道院部分は柱・梁ではなく壁が全面に出てきており、窓は実質的に縦長窓(正方形の窓だが上げ下げ式なので縦長窓の一種とみなす)。つまり欧州のレンガ積み建築を受け継ぐ保守的なスタイルで、聖堂部分とは全く違う。 窓についてもう少し述べると、本作で私が最も気になったのは修道院部分の窓枠だった。田の字になっているので、日本人の感覚では観音開きにするのが普通だと思うが、ここでは上げ下げ式を二つ並べている。上げ下げ式は欧米では標準的だが日本ではほとんど定着しておらず、どうしても上げ下げ式にしたいという明確な意図を感じさせる。
これらの謎に答えるヒントになるのが、本作が外国人神父・修道士の生活(日本人も含めて最盛期で30名いたという)を前提に設計されているということと、ドイツ人建築家イグナチオ・グロッパー修道士の存在だ。グロッパー修道士は関東大震災で半壊した上智大学の再建を手始めに、国内のイエズス会系施設の大半に関わったといい(県内では本作のほか、世界平和記念聖堂、三篠教会、呉教会で名前が出てくる)、本作でも設計監修のような形で関与した可能性が高く、グロッパー修道士の関与が確実視される聖ヨハネ修道院とも酷似している(長束では窓は上げ下げではないが)。つまり、設計図を描いたのは竹中であるが、特に修道院部分については外国人の生活の場であることから、修道士の意見が多く取り入れられて設計されたものと推測される。


ディテールについて

#8:洗礼盤周辺の床の仕上げ。真鍮目地が美しい。

ディテールも決して華美ではないが、丁寧な仕上げによる凛とした美しさや暖かみが印象的。特に洗礼盤周辺(写真#8,13)と西側階段(写真#14)の床は人造石研ぎ出し仕上げで真鍮目地付きで見ごたえがある。研ぎ出し仕上げ自体は当時はポピュラーなものだが、今となっては希少価値の高い逸品だ。スチールの建具や木製家具も年月を経た深みを感じさせる。 なお、外壁は洗い出し仕上げになっており、これは学院の校舎や長束修道院とも共通する仕様である。 その他の気になったポイントは、聖堂部分3階のサイドチャペル(写真#12:窓は上げ下げ式でモザイクは学院の生徒の手による)、修道院3階談話室の網戸、修道院1階の洗濯室にある研ぎ出し仕上げの大型シンク(写真#16)、なぜか床柱のある応接室など。
解体により広島の戦後史を語る証人がまた失われたことは残念だが、せめてこのような形で記録に留められただけでも幸運と考えるべきかもしれない。