原爆ドーム/旧広島県産業奨励館

ヤン・レツル 1915

#1:平和記念公園からの軸を受け止めるモニュメントとなっている

世界遺産にも登録(*1)され、広島最大の観光名所として君臨している原爆ドームだが、被爆前にあっても楕円形ドームを備えるこの建築は観光名所であった。
レンガとRCが併用されているが、開口部が大きく、耐震性には問題があったと思われ、RC造であるレストハウスや日銀とは異なり被爆時にほぼ崩壊した(*2)。辛うじて残っているのは爆風がほぼ直上から襲ってきたためであろう。戦後はたびたび取り壊しの危機に瀕しつつも生き延びた。鉄骨により支えられ、樹脂を注入されることで全面崩壊を免れているが、依然として地震等により倒壊してもおかしくない状況にある。

広島県物産陳列館の建設

#2:南東側から撮影。爆風はほぼ直上の東側(手前)から襲ってきたためこのような壊れ方をしている。超広角レンズのせいでパースが効いているが、実際はこれほどの広がりはない。

本作は日清戦争を契機に発達した県内製品の販路を開拓する拠点「広島県物産陳列館」として計画された(同様の動きは全国各地であったようである)。建設主体は広島県であり、計画地は元安川に面する旧広島藩の米蔵跡地。設計者であるチェコ人建築家ヤン・レツル(Jan LETZEL 1880-1925)にこのプロジェクトを持ちかけたのは県知事寺田祐之とされる。レツルは東京・精養軒の仕事をこなす中で宮城県の松島パークホテル(精養軒が運営を担った)を設計しており、寺田が宮城県知事時代にこれを見ていたことが縁となったようだ。

1913(大正2)年2月、知事は第18代寺田祐之氏が宮城県知事より着任した。彼は宮城県知事時代、松島パークホテルの設計をヤン・レツル氏に依頼した経験から広島陳列館の設計を東京銀座京橋に設計事務所を開いていたヤン・レツル氏に依頼している。当時レツル氏は水を背景にした建築物にユニークな美しい設計をするということで知られていた。レツル氏が設計の図面と仕様の一式を終えたのは1913(大正2)年10月4日である。設計料は4575円であった。当時広島市の土地は坪当たり24銭から4円で、石工の日当は90銭から1円10銭、新橋-広島間の汽車の運賃は三等で5円17銭、二等7円75銭、一等13円33銭で、広島市の人口は13万であった。
(広島経済大学ウェブサイト内「原爆ドームの歴史」から引用)

詳細な経過としては、1915年4月5日に竣工して直ちに「共進会第一会場」となり(ちなみに第二会場は広島城の練兵場)、共進会終了後の8月5日に「物産陳列館」としてオープンした。その後、1921年に「広島県商品陳列所」、1933年に「広島県産業奨励館」と改称され、広島県内の物産の展示・販売のほか、広島県美術展覧会、博覧会、共進会などの文化的催しに利用され、菓子博もここが会場となっている。日本初のバウムクーヘン販売も行われた(*3)。
しかし、戦時下の1944(昭和19)年3月になると産業奨励館としての業務が廃止されて統制会社の事務所へと変わり、被爆の日を迎えることになる。(*4)

セセッションとヤン・レツル

#3:セセッション館(ウィーン)

#4:日本におけるセセッションの例:海岸ビル(神戸)

#5:聖心女子学院の門(Wikipediaより)CC対象外

いったん時計の針を19世紀末に戻して、当時の建築界の状況と、本作の設計者とされるヤン・レツルについて解説する。

19世紀のヨーロッパの建築は、過去の様式をなぞる歴史主義建築が主流であったが、19世紀末になると、産業革命により鉄・ガラスといった建材の大量使用が可能になったこともあり、古い様式から脱して新しい建築表現を探そうとする活動が活発化する。国によって、「アール・ヌーヴォー」「セセッション」「ユーゲントシュティール」などさまざまな形態を見せた。
それらの代表例といえるのが、ウィーンを中心とするセセッションだ。既存の芸術から分離するという意味で、分離派とも訳される。保守的な芸術を批判し、新たな表現を探そうという芸術運動で、1897年に結成。画家のグスタフ・クリムトを中心に、建築家オットー・ワーグナーらも参加した。その拠点としてウィーンに建てられたセセッション館を見ると、左右対称の重厚さは古典的だが、平滑な壁面やガラストップライトの採用で近代建築を表現し、前衛的で有機的な装飾が付く。このように、セセッションは、ギリシャ・ローマ等に由来する過去の様式は否定しつつも、装飾を無くせとは主張しておらず、後にル・コルビュジェらが発達させるモダニズムとは異なる。
セセッションは本国の流行から10年くらい遅れて日本にも伝えられた。日本の建築界は、明治時代は西欧の様式建築のコピーから始め、大正時代には概ね技術を習得しており、次のデザインを探そうとしていた日本の建築家たちはこの前衛的なスタイルに飛びついた。国内に残る建物で「大正時代」「古典様式でない」「方形などの幾何学模様の装飾」であれば、それはセセッションと判断してよい。

一方、本国でリアルタイムにセセッションに接していたのが、ヤン・レツルだ。レツルは1880年チェコ・ナホトに生まれ、プラハでヤン・コチェラに建築を学ぶ。当時のチェコはオーストリア=ハンガリー帝国の一部であり、ヤン・コチェラはオットー・ワーグナーの弟子でもあるため、レツルもウイーンの建築事情には通じていたはずで、自身がプラハに残した作品はアール・ヌーヴォー風であるが、当然セセッションにも通じていたと思われる。レツルは1907年にドイツ人建築家デ・ラランデの事務所スタッフとして来日し(来日理由は不明だがアール・ヌーヴォーやジャポニズムの影響ではと推測する)神戸オリエンタルホテルなどを担当した後、1909年に同じくチェコ人エンジニアのホラと独立し「レツル&ホラ事務所」を構え、聖心女子学院、上智大学、多くの住宅を手がけた。しかし作品は震災・戦災・火災などでことごとく失われ、レツル自身も関東大震災に被災し失意の中帰国、1925年にプラハで没している。東京で辛うじて現存する聖心女子学院の門は、西欧的なアーチに日本風の屋根とセセッション装飾が付く独特なデザイン。また、丹下健三の代表作である東京カテドラルの脇に残るルルドもレツルの設計とされる。


旧産業奨励館のファサードデザイン

#6:旧産業奨励館の平面図。中央のドーム部分は階段室で楕円形。川側ファサードも平坦ではなく楕円。さらに建物全体が川のラインに沿って曲がっている点にも注目したい。(CC対象外)

#7:旧産業奨励館の立面図。ネオ・バロックの様式建築とセセッション装飾が同居している。(CC対象外)

#8:初期バロックであるバチカンのサン・ピエトロの増築部。

では、旧産業奨励館のデザインを見ていこう。本作は全体構成をネオ・バロック様式、装飾をセセッションとしている(雑誌でレツル自身がセセッションと記している)。あくまでベースは様式建築なので、川側をファサードとしてそのバランスを整える作業が行われている。

バロック様式は、もともとは17世紀頃の様式であり、バチカンのサン・ピエトロの増築部などが代表的。二層ぶちぬきのジャイアントオーダー、楕円形、彫像などゴテゴテした装飾が特徴で、華やかさの演出に力点が置かれる。これが19世紀に復活し、ヨーロッパ各地で「ネオ・バロック」として多用されていた。
本作の場合、まずポイントになるのは階段室であるドーム部分で、上から見ると正円ではなく楕円(楕円形の施工は難しいため、実際には複数の半径を持つ正円を組み合わせた疑似楕円)になっている。これだけで一発でバロックと即答できる。さらに、楕円はファサードの平面形にも多用され、この波打つようなファサードを歩きながら見上げると動的に変化していく様子を味わえる。楕円形のドーム屋根の施工は(疑似楕円とはいえ)かなり難易度が高かったはずで、職人の手作業で銅版が加工されて施工された。

この平面形を踏まえつつ、杉本俊多先生の論文(参考文献6))を参考に立面を解説する。まずファサードの窓を見ると、3つ単位で1セットを構成しており、左右のウイング部に3セット、中央のエントランス部に1セット、両者の間に2セット配される。左右対称で3-2-1-2-3というリズミカルで動的なバロック的な配置といえる。セットの区切りになるのはピラスター(付柱)で、これを列柱に見立てている。しかも1~3階までぶち抜きのジャイアントオーダーで、バロックの特徴が出ている。また、ドーム屋根直下にはさりげなくペディメント風な造形が置かれている。このように基本的にはネオ・バロックだが、ドーム屋根、パラペット、エントランス周りといったポイントにはアクセントとしてセセッション風の装飾が付けられている。
全体をセセッションで作るのではなく、様式建築とセセッションが棲み分けながら同居する、これが本作のデザイン上の個性と言えるだろう。

ディテールで特筆すべきはやはりセセッション風の装飾であり、本作のデザインはお約束の方形を多用しつつもかなり前衛的だ。パラペットは多くが崩壊しておりわずかしか残っていないが、エントランス周りの装飾は今でも間近に見ることができる。
レツルは母国でも無名の存在で、決して東欧を代表する建築家などではないが、セセッションの本場に近い人物が日本国内に残したセセッションのデザインというのはあまり例がなく、かなり貴重な存在といえる。



旧産業奨励館の内部

#13:2階の階段室前の柱

一般的なレンガ建築と同様、本作も壁はレンガで作り、そこに木の梁を渡して木の床を張っている。階段ももちろん木製。つまり外観はレンガでも内部は木造である。被爆時には、ほぼ直上からの熱線でドームの銅板屋根が蒸発、直後に襲ってきた爆風で木造の床は吹き飛び、残った箇所はその後の火災で消失し、一部のレンガ壁だけが残った結果が現在の状態である。レンガ壁をよく観察すると各所に穴が開いており燃えたススらしきものが見えるので、おそらくそこに梁が差し込まれていたのだろう。
このような状態であるためインテリアは現存しないが、2階の階段室前(ドーム下)のイオニア式柱頭装飾を備えた柱2本だけが唯一面影を残している。外観はネオ・バロックとはいえ相当に簡略化されたデザインであり、セセッションという新しいスタイルも持ち込んでいるのに、この柱は様式をそのまま持ってきたあまりにベタな形をしており、違和感が残る。アクセントとして西欧っぽいものを付けたのかもしれないが、意図は不明だ。


リバースケープへの意識

#14:ファサードを川に向けていることがよく分かる。戦後の護岸デザインもすばらしく、国内では最高クラスのリバースケープ。

#15: 8月6日の夜には灯籠流しが行われ、平和公園の親水護岸が真価を発揮する。被爆者の高齢化に伴い、イベントの目的も慰霊からメッセージ発信に変化しつつある。

本作を現代の視点から学ぶべき点も多い。その最大のポイントは、建物の顔を川に向け開放的な川辺の景観デザインを成立させている点だ。もともとこの地は藩の米蔵があり、年貢米を積み出すための階段状の雁木もあった(現在の雁木が江戸時代のものかどうかは不明)。レツルはそういった相生橋橋詰のコンテクストを読んでデザインしたのだと思う(*5)。日本の建築は道路に顔を向ける傾向があり、しかも河川は斜線制限や日影制限が緩いからギリギリまで建ててしまいがちで、河川景観は貧相なものになっている。そんな中にあって、本作は単に川側に顔を向けるだけではなく建物自体を川のラインにあわせてカーブさせることで、川辺の歩行者や川を行く船からの見栄えも整えられている。いかにも近代ヨーロッパのリバースケープへの意識を強く感じさせ、川の街広島らしい建て方を指し示しているように思える。
また、現地を訪れたら、ぜひ戦後に再整備された護岸のデザインにも注目してほしい。石材をうまく使いつつ、煩わしい柵を設けないことで、国内の都市河川ではトップクラスの美しい護岸となっている。さらに戦後の復興都市計画で作られた河岸緑地の緑も加わったこのリバースケープは、他の都市にはない極上のものだ。


被爆建物保存のさきがけを通して古建築の保存を考える

#16:平和記念公園から原爆ドームに伸びていく軸線。

旧産業奨励館は前述の通り、ほぼ直上で炸裂した原爆により一部の壁やドームの骨組みを残して倒壊した。誰ともなく原爆ドームと呼ばれるようになったが、復興や市民生活が困難を極める中、その保存に関心が向くことはなく、解体論も根強かった(1949年アンケートでは保存62%、解体35%)。 県から建物を譲渡された広島市は本作について「崩れるに任せる」との立場であり、浜井市長も解体論者であったが、独立回復による報道規制解除や第五福竜丸事件などが重なり、世論の盛り上がりを受けて市も方針転換を探るようになっていく。この流れを後押ししたのが平和記念公園の建設だ。原爆ドームがシンボルだから公園内に軸線を通そうとしたというのは正しくなく、むしろ丹下健三が軸線を通したことで原爆ドームの重要性が再認識され保存運動に力を与えたというのが正しい。
しかしそれでも結論はなかなか出ず、保存に係る市議会の決議は1966年までずれ込んでしまっている。このように事実関係を振り返ってみると、原爆ドームであっても、他の被爆建物と全く同じ葛藤の中で保存への道が模索されてきたということがよくわかる。

そう考えると、もし広島が被爆せず産業奨励館が健全なまま戦後に残されたとしたら、おそらく耐震性などの理由をつけられ、保存運動もむなしく跡形もなく解体されて21世紀まで残っていないだろう。被爆し崩壊したおかげで建物が残ったなどと言うつもりは毛頭ないが、本作よりも健全な状態だった被爆建物も多くが解体され現存しない事実もあわせるに、古い建物を保存するハードルの高さが改めて浮かび上がるように思えた。

もう一点。本作に係る意見として「旧産業奨励館を復元しよう」というものをよく見かけるが、それには明確に反対したい。理由は簡単で「復元できない」からだ。詳細がわかる図面が存在しないし、木材は焼失しておりオリジナルのディテールはわからない。さらに、防火地域に木造は原則的に建てられないし、オリジナルは根本的な耐震性の問題を抱えている。その他にも現在の法規に適合しないものが大量にあるはずだ。
レンガ建築をゼロから再建した事例がないわけではない。例えば東京の三菱一号館があるが、同作はオリジナル解体時に記録が残されておりクローンを作るのが容易だったのと、免震装置などにお金を潤沢に使えたという事情があり、広島では難しいと思われる。
構造が弱いならレンガでなくコンクリートにして、時代考証ができないなら適当な木材を貼っておけばよい…とやってしまうと、それはチャチな偽物であり、訪れる人に何らの感慨ももたらさない、至極残念なものになる。そんなものは全くおすすめできない。