山陽文徳殿

広島市営繕課 1934

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文人 頼山陽の没後百年祭を契機に建てられた記念堂。 比治山の多門院に頼家一族の墓地があることから、その隣地である当地が選ばれた。建設費は「文徳殿建設翼賛会」の寄付金と市の負担金(博覧会の剰余金を充てたらしい)によりまかなわれたという。内部には頼山陽の像が置かれ、その学問教育などによる徳を偲び、受け継ぐ場としての役割があったようだ。戦時中は疎開してきた市役所の戸籍がここに収容されていた。 被爆時には強烈な爆風にさらされ、頂部の装飾が変形しガラスが飛ぶなどの被害を受けたが倒壊・火災は免れた。戦後は図書館、集会所として使われた後に閉鎖され、現在に至っている。

RC近代和風建築の誕生と発展

#2:明治神宮宝物殿

#3:本作と同年代のRC近代和風建築。左:九段会館、右:厳島神社宝物館

本作を語るキーワードとなるのがRC近代和風建築だ。まずはその誕生と発展について解説しよう。
日本でRC(鉄筋コンクリート)が普及する大きな契機となったのが関東大震災(1923年)だ。明治以降に多用されたレンガ造は揺れに弱く、木造は火災に弱いため、RC造に注目が集まった。ではRCで和風をどう表現するかが当時の建築界の一つのテーマとなり、その試行錯誤の中で様々なデザインの「RC近代和風建築」が建てられていった。
それらのさきがけとなった作品として明治神宮宝物殿がある。設計は大江新太郎、デザイン監修は伊東忠太、さらに佐野利器が参加する豪華な顔ぶれで、RC近代和風建築の方向性を示すものとなった。後に大江は宮島の厳島神社宝物館も設計しており(本作と同じ1934年の竣工)、こちらでは木造の和風建築をそのままRC造で再現したデザインとしている。
また、RC近代和風建築の一つのスタイルとして、洋風建築の上に和風の屋根をやや強引に載せる「帝冠様式」と呼ばれるものも出現した。その代表作の一つである東京の九段会館も本作と同じ1934年の竣工である。

本作に見られる和風

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#5:明治神宮宝物殿の壁も末広がり

■抽象化された和風の表現
本作はRC近代和風建築の一種であり、もっとも盛り上がっていた昭和初期に設計された。では具体的に外観デザインを見ていこう。
まず、本作では、本来木造である和風建築にあるはずの柱・梁が表現されておらず、和風を直接表現したデザインにはなっていない。壁を立てて縦長の窓をあけ屋根を載せており、むしろ洋館(石やレンガを積むのを前提とするデザイン)に近い。外壁には校倉造のような形や、セセッションの影響とみられる幾何学的な造形も見られる。エントランス周りには唯一柱が表現されているが、あえて和風を想起させる丸柱となっている。
屋根に目を転じると、当初は瓦葺きであったといい、明らかな和風デザインだ。頂部には相輪のような装飾が付き、被爆時の爆風で変形しつつも現存している。

■傾斜した壁の謎
本作の壁を見ると、一部が外側に傾斜して末広がりになっていることに気づく。これは和風にも洋風にもあまりない要素であり、壁を支える補強として設けたものと思われるが、ひょっとしたら明治神宮宝物殿の影響かもしれない。明治神宮宝物館のウイング部分の壁は末広がりになっており、これは朝鮮の伝統建築に見られる「内転び」から来ているらしい。仮説にすぎないが、もし本作の壁のかたちの元ネタが朝鮮にあるとしたら、見えかたの深みがさらに増しそうだ。

■全体の感想
外観全体を見た印象では、いくつものデザイン要素をまとめきれていないところもあるが、近代和風建築の中でも前衛的な部類であり、RCという新技術に対応した和のデザインの方向性を探る意欲的な設計と評価できる。当時の広島市営繕課は袋町小学校の設計もしており、相応の設計能力があったようだ。

現存する戦前期のインテリア

#6:木のインテリア(普段は閉館しており内観できません)

内部空間は外観とは違って木造の和風で統一されている。何らかの様式に基づくものではなく、花頭窓・下地窓・格天井・網代天井・欄間装飾など、和風と言われて連想される要素がちりばめられている印象だが、個々のしつらえはすばらしく、木造建築技術が頂点を極めた昭和初期の職人技を堪能することができる。
前述の通り、本作は被爆時に損傷しつつも火災を免れており、インテリアのかなりの部分が現存している。広島都心部の被爆建物は、建物の外壁は残っても内装は焼失しているケースが大半であり、本作の存在はとても貴重だ。ごく小さな片鱗にすぎないが、広島にも確かに高い建築文化があったことを、実感を持って確認することができる。

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